正月に兄と再会したとき、古びた鳥かごに、小鳥を一匹つれていた。話を聞くと、飼っているという。南国らしい、黄色い模様の美しい鳥であった。
私は、鳥かごを開けて、小鳥を大空に逃がしてやりたい衝動に駆られた。地球の半分を飛び回る力を持つ小鳥を、1平米にも満たぬ小さな檻のなかに閉じこめることは、奪うものが大きいだけに、いっそう残酷に思われた。また、森の隠遁生活中、小屋に迷い込んできた小鳥の無垢な眼を見て、健気に大空を羽ばたく小鳥こそ、世界の創造主であるデミウルゴスの最高傑作のひとつにちがいないと考えたこともあった。
私は小鳥を逃がしてやらなかった。兄を憤怒させることを怖れたか。それともこの厳しい冬に野生にかえしても、エサを自力で獲得できる力がないことを知っていたからか。いずれにせよ、私はある光景を見て、小鳥を逃がす気は完全になくなってしまった。それは、兄がエサと水をやるために、鳥かごを開けっ放しにしていても、小鳥がちっとも出ていく気配がないことだ。
鳥かごのなかにいれば、自由はないが、水とエサは確保できる。小鳥は、食わしてもらうことに慣れ、自分が空を飛べることを忘れてしまったのだろうか。それとも、空を飛ぶことをおぼえていても、空を飛びたいという願望を失ってしまったのだろうか。
小鳥のほうに自由の渇望と、自由を獲得する意志がないのをみると、私は独りよがりに高ぶらせた熱い衝動が冷めていく感覚をおぼえた。私は、鳥かごに捕らわれた珍しい鳥への関心を失っていった。そして、庭先の緑と戯れ、大空の青を自由に羽ばたくスズメをみているほうが、ずっと好きであることに気づいた。
本能を奪われれば、手懐けられるに容易い。これが人間の比喩になることも容易に想像できよう。
生命は生きるために、環境に適応する。われわれの持つ、すさまじい環境への適応力とは、神が生命に授けた神秘のひとつである。この神秘をどう扱おう。適応によって、病気にもなれば健康にもなる。元気にもなれば、憂鬱にもなる。力を漲らせれば、無気力にもなる。
鳥かごのなかにいるときは、自分が空を飛べることを信じることができない。なぜならば、鳥かごに安住しているかぎり、安住の原理をたえず強化しつづけ、安住の信念が力を増していくからである。
だが、大空に投げ出されてしまえば、飛ぶことはできるはずだ。小鳥は、神から飛ぶ力を授かった。その力を信じないことは、冒涜だと思わないかい。それと同じことを人間にも言えよう。もう一度言おう。神から授かった力を信じないことは、冒涜だと思わないのかい。
われわれは飛べるのである。
2024.1.16
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