生の原理、死の原理[561/1000]

隠遁中の三ヵ月は、色んな「主義」を言葉にした。エピクロスの東洋的快楽主義からはじまり、禁欲主義、神秘主義、民主主義、個人自由主義、耽美主義、ロマン主義、ヒューマニズムである人間主義、人文主義など、あげればキリがない。

 

だが、特定の主義を主張して生きるのは、どうしても矛盾をはらむことばかりか、筋違いであるように思われた。例えば、隠遁生活は東洋的快楽主義の模範でありながら、私は無気力を原理とする、上級的な享楽に対しては禁欲主義的であることを心がけ、古典的を好むようにした。この理由は、散々述べてきたことであるが、私は人間の感情を無力にする習慣は、人間を創造した神への冒涜であるという哲学に感服しているからである。かといって、私が神秘主義者かと問われれば、私はこの隠遁中に、民主主義的な人間愛を、渇いた胸奥から見つけたばかりである。

 

主義とは、学問や文化の分類としては役立っても、主義を貫徹するために生きるのは、頭脳の自由をもつ人間には不自由であるばかりか、かえって混乱の種になるだろうと思われる。

しかし、もしこうした矛盾に共通点を見つけるなら、私の場合は「死」を原理にすることだと言える。人間愛も「生」の原理ではなく、死の原理から発見することに、私は救いを見出したし、完全な禁欲主義に肉体を苦しめるのではなく、古典的な享楽を是とする、エネルギーを賛美する下においては、享楽を気持ちよく受け入れることもできるようになった。

 

もっとも今日の世相は、「生」の原理に働くものが多い。先日、宗教が生の原理で動けば、宗教は自己目的となり、胡散臭くなることも書いた。それ以外にも、エゴイズムは生の原理であるし、レジャー的幸福も生の原理だ。

生命的な話をすれば、宇宙とは死の原理によって動くものであるまいか。われわれは今この瞬間も、絶えず熱反応を繰り返し、新陳代謝を行い、細胞は死滅し、生成し、死に向かっていく。死んでいく時間のなかで、現象としてあらわれるのが生であるということだ。原理としては死だけが存在し、生は第二義であり、あくまで現象である。生の原理などは、生命的にはありえず、生が原理のように謳われ、自己目的化するのは、物質の知性から発せられる死への恐怖、そして物質礼賛である。

 

生命は死の原理によって働きつづける。社会のいう「愛」の違和感、「幸福」の違和感は、生の原理に端を発していたものだったし、彼女らを死の原理に見出せば、ずっと可愛げのあるように思われるのだ。

 

2024.1.2

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