隠遁生活3ヵ月目の心境[533/1000]

師走になってからは、一気に冷えてきた。おもてに放置した飲み水は、明け方カチカチの氷になる。火を起こして、束の間の暖をとり、冬と生命の戦いが本格的に繰り広げられるようになった。

 

隠遁生活も三ヵ月目に入り、さいしょの終わりが見えてきた。クリスマスイブに森を発ち、昨年も行った諏訪湖の教会のミサに行こうと思っている。そのまま近くで夜を明かし、2日続けてクリスマスにも参加し、その足で実家に帰るつもりだ。

私はクリスチャンではないが、有と無、生と死を架橋する聖祭に立ち会わせてもらうことは、魂の糧になる。物質社会の今日では、貴重な機会だ。

 

また、正直に心境を明かせば、この長い隠遁期間で、人間に出会いたいという気持ちが高ぶっていることもある。私のような社会に深く属さない半端者にとって、参加できる社交の場はかなり限られてしまう。教会のミサはその一つだ。だが、考え方によっては、家族と集い新年を祝う国の正月と、キリストの降誕を祝う西洋の伝統を、どちらにも参加できるとは、贅沢なことであると思う。

 

これを機に、隠遁生活の近況を記してみよう。非常に感銘を受けたトーマスマンの「魔の山」を二週間かけて読み終えた後、同著の二週目もおおむね読み終わり、今度は、シェイクスピアの四大悲劇を日ごとに読んでいる。まだひと月近くあるため、魔の山のような大著にとりかかりたいが、次はどうしようと思案しているところである。

西洋に肩入れしすぎている感じもあるので、桶谷秀昭氏の「昭和精神史」というとっつきにくいものを、読んでみようかと考えている。キリスト教的な人間精神、生と死の束ね方について、日々思考を重ねてきたが、やはり最後は日本人としての血にすべてを吸収したいと思うのだ。

 

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かつて、「感情」の地位をさげ「精神」の地位を上げたと書いたこともあったが、これは感情を殺すという意味ではない。精神のうちで、感情はエネルギーとなり爛爛と燃えている。忍ばせ、力を凝縮し、行動に噴出させていくことだ。精神が大きくなれば、感情の許容量も膨れよう。

何が言いたいかと言えば、私は友に会いたくてしかたがないのだ。人生の兄弟たちに会いたくてしかたがないのだ。ああ、そのためには己を叩き続けねばならない。さあ、あと一か月の隠遁、森厳でひとりきり、心身鍛錬に励むしかない。

 

2023.12.5

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