この世を幸せに生きたいと願う厭世家に[528/1000]

愛せない人間の、悪意の底にあるものは、魂の悲憤の涙である。

願望は愛を欲するも、幸福に慣れ親しむことが、魂の消滅を予感させるなら、大きな人間愛が悪意を選ぶ。

 

魂と愛は、二律背反だろうか。人間を愛しながら、善意をもちながら、魂を忘れずにいることはできるだろうか。事実と願望を登場させれば、事実が魂を従え、願望が愛を訴える。愛に生きたいとは願望だ。太宰がタンポポすら愛せないと「ヴィヨンの妻」で語るように、事実と魂に全面的に希望を投げ出せば、愛することは決して容易ではない。

 

愛に焦がれながらも、悪意が善意を見つける前に、人間を傷つける痛みに耐えうることができないから、厭世が翼の折れた勇気を慰め、幸福から孤立してしまうのだ。しかし、悪意の底に善意があると知ることだけでも、この世を幸せに生きたいと願う厭世家にとっては、大きな希望である。

私はこう信じたい。現世否定の原理に支配され、たとえ奈落の底に沈もうとも、最後の最後には、オセロの黒がすべて白にひっくり返るように、大きな愛が深淵から溢れかえってくると。

 

私はこの数日間、無気力を題材にした詩を書いていた。韻律はこうだ。

「エゴイズムの鐘が鳴る

胃袋にそっと噛みつく 追憶の影

情熱に託された 最後の善意

 

エゴイズムの鐘が鳴る

幸福は道化と肩を組んで腹鼓みを打ち

詩人に料理を運ばせる

 

エゴイズムの鐘が鳴る

・・・」

 

だが、私は悪意に屈することなく、善意を底流からくみあげるのなら、”エゴイズムの鐘”のかわりに「善意の鐘」を鳴らすべきではないのか?と戦慄したのだ。私は今、骨の髄まで大部分を悪意に委ねている。悪意のうちに廃れるのは、現実主義的かもしれない。だが、ここから生まれるのは、冷笑、侮蔑、嘲笑的な態度であって、幸福に対する惨めな嫉妬、つまり女々しさを感じるのだ。

 

ああ、分からない。私は善意の肩を持とうとし過ぎているだろうか。それは、愛の原理で生きた方が、間違いなく、現世の人間に受け入れられて得をするからだ。まだ確信はない。だが、悪に堕ちることを魂が欲しているのかもしれない。

こうしていつも混乱にさらされる時は、三島由紀夫を思い出す。魂に生きながら、愛に生きた人。

 

2023.11.30

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