ホームレスの住居であるダンボールハウスや、ブルーシートで覆っただけの簡易的な家が、いかに最低限の労力で、最低限の機能を合理的に獲得しているか、家をつくってみて、色々感ずるところがある。
金もない。物もない。そして、場所すらもなく、すぐに立ち退けられるようでなくてはならない。それらの制約に圧力を加えられながら、いかに、生命の熱を維持するかという一点に知恵が絞られたとき、ホームレスの家が誕生する。
あの路肩に組まれた密閉されたダンボールのなかは温かく、冬でも毛布一枚でしのげると聞く。
私の家は、理想をもとめすぎた結果、現実を軽視しすぎた。デザインは凝ったものの、機能面については、最低限の雨風をしのげればいいと考えていたので、四面のあちこちに隙間がある。その結果、冬の本格的な到来を前にして、かなり苦しい思いをしている。薪ストーブを焚いたとしても、隙間からの冷気が火の熱を圧倒し、部屋は外気と変わらない。
思えば、ストーブを焚いても、窓が開いていたら部屋はちっとも温まらない。家における密閉性というのはそれだけ重要であり、あのホームレスの密閉されたダンボールハウスが、計算され尽くされた洗練されたもののように思われてくるのである。
生命とは熱である。この熱を自然の暴力から守り、維持することこそ、家の第一義である。第一義だけを追求した、生存に特化したホームレスは、「野性的合理主義」と言えるだろう。
次はもっと彼らに勉強しようと思う。家が小さくなれば、隙間がないように詳細を丁寧にする余力が生まれるし、少量の薪で部屋も温まる。なにより、同じ予算であれば素材は上級となる。10万もあれば、上等な家ができるだろう。
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森のすぐ隣に、おばあちゃんが一人住んでいる。二人の息子に病気で先立たれた不幸な方だった。優しさの中に隠しきれない魂の悲歎を感じた時、「ああ、この方は僕なんかとは比べものにならないくらい暗いものを抱えている」と思った。
はじめて挨拶をしたとき、庭の花が綺麗ですねというと、「花は嫌なことを忘れさせてくれる」と老婦人は哀しそうに答えたことが印象に残った。その後、実家から届いた栗きんとんを、一度差し入れし、おばあちゃんとの交流はそれきりである。
毎日のように救急車のサイレンが響く。それがすぐそこまできた。心配になって見に行くと、おばあちゃんの家の前にとまっている。体調を崩されたらしい。不安と同時に、こんなにも敬虔な気持ちになるのはどうしてだろうか。
立てつづけに不幸におそわれた優しいおばあちゃんに、さらなる不幸がのしかかることに、運命の悲哀、神の沈黙を感じるからだろうか。不幸な人間には幸福が訪れるべきであるという人間の希望がいとも簡単に裏切られてしまったからだろうか。
世相が幸福のエゴイズムに染まるほど、不幸な人間に訪れる不幸の残酷さが一層濃くなっているようにみえる。
せめてお茶くらいお誘いしたらよかっただろうかと、孤独な青年なりの義務を問うている。ご無事であることを、今は祈ろう。
【書物の海 #40】美しい星, 三島由紀夫
思想の衣装は悉く廃れ落ち、人間は裸で宇宙の冷たさに直面している。お前のその非力な掌では、すでに冷えかかった人間の体を、温めてやることなどはできやしない。やつらを温めてやれるのは核爆発だけなのだよ。神々が死に、魂が死に、思想が死んだ。肉体だけ残っているが、それはただの肉体の形をした形骸だ。
2023.11.12
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