信仰とは胸奥から迸る炎である[496/1000]

私は感情の人間だ。恥ずかしながら、過去には、積もらせた怒りを爆発させ、人間関係を何度もぶち壊してきた。ゆえに、こう思うと怖ろしくてならない。もし私にまともな精神が宿れば、真っ先に破滅してしまうのではないかと。夜な夜な気が狂いそうになり、深夜のおそろしい森に身を投げ出さずにはいられなくなる。自分よりも圧倒的大きな存在の畏怖に横たわれば、不思議と己を制御できるようで安心するのだ。

 

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精神を宿した人間は、もしかしたら一度は愛すべき過去を、死ぬほど憎んだことがあるかもしれない。もしかしたら今も、死ぬほど憎んでいるかもしれない。こうした過去の記憶は、厳格で、苦悩に満ち、禁欲的で、軍隊のような規律があり、われわれの自由を奪っていたものである。

しかし、いつか気づくときはやってこよう。今日の精神は、そうした「貧しく」「窮屈で」「虐げられた」環境で根を地に伸ばし、すくすく育ったものだと。地上に芽吹いたものは、そうした暗い地の底を、拠り所としている。

これに気づくとき、憎しみは大きな愛へと変わるだろう。自己愛ではなく、本物の愛だ。涙を流さずにはいられない瞬間だ。

 

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信仰と宗教をいっしょくたに考えている人間は、今日多い。

私が思う信仰とは、胸奥からほとばしりでる炎のようなもので、存在が流体と化すものである。対して宗教は、あくまで流体となる手段のひとつにすぎず、宗教そのものが目的となれば、本末転倒である。

宗教は信仰を必要とするが、信仰は宗教を必要としない。日本人の信仰は後者である。

原始キリスト教は、殉教するほどのすさまじい炎であった。しかし、炎を忘れた宗教は、神の名を用いた、教条化した道徳と化すのである。

私は信仰を重んじる人間である。

 

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一般的に聖書は、愛の教えが説かれている。道徳書として思われていることが多いが、私はむしろ、イエスの生き様を綴った英雄の書だと思って読むことを好む。神の怒りが信じられる時代背景のなか、神の愛を説いたイエスは、まさに革命的な存在であった。人にさげすまれ、崖から突き落とされそうになり、弟子に裏切られ、最期には無残な死を遂げても、イエスは愛を説きつづけた。

イエスは旧約を突き抜けた。炎の柱は、天まで上った。ゆえに、突き抜けることのできない旧約の人間に殺された。今日も、世相は変われど、その構造は変わらない。さあ、今日の炎を失った「宗教」とはなんだ?

 

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大切に思う人たちにほど、ほんとうは仕合せになってほしい。しかし、彼らの幸福を打ち砕けば、その果てにあるのは人間の破滅かもしれない。彼らを不幸にする勇気はあるか。それが「人間」にとって義の道であるとしても。優しさ?いや、ほんとうの優しさは、同じ天の下(仕合せ)の下に生きることではないのか。断じて、エゴイズム、個々に分け隔たれた幸福などではなく。

己のうちに膨れ上がる軽蔑の念に堪えられるか。それができぬから、己は己を無気力のうちに悶絶させてしまったのだ。ああ、強さがいる。人から離れ、孤独にならざるを得ないのは、恥だろうか。

 

 

【書物の海 #26】イエスの生涯, 遠藤周作

この寂寞たるヨルダンの谷を一人、大工イエスは南に下った。歩きながら彼は孤独だった。

彼は自分がこれから住むユダの荒野がどういう場所であるかは知っていた。そこは地の果てという言葉にふさわしい地帯である。酸化した髑髏(されこうべ)のような禿げ山が地平線につらなり、わずかな灌木と藻とがところどころに生えているほか、生き物の何ひとつない褐色の荒野が死海までひろがっている。一匹の魚もすまぬ死海はモアブの山影をその死にたえたような水面にうつすだけで永遠に沈黙している。

 

私はイエスに対するイメージが一人の宗教家から、一人の革命家、一人の戦士、一人の英雄、一人の血の通った悲劇の人間に変わったのは、この本がきっかけだった。そのために聖書そのものも、愛の教えを説いた道徳書から、人間の生き様がつづられたバイブルとしての色が強くなった。

イエスは孤独な人間だった。日本では想像もつかないような、この寂寞な荒れ地を思うと、死の風に無防備にさらされたイエスの魂の叫びが痛々しく伝わってくる。それを感ずるたびに、私は己を奮い立たせることができる。

ああ、俺はあなたのような男に憧れているのだ。

 

2023.10.29

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