神は死んだ⑤[495/1000]

精神修養とは、己の海に飛び込むことである。息がつづかず、もう海面に顔を出してしまおうかと思うところを意志の力によって克服し、さらに深みへと潜っていくのである。そして、海底で溺れ死ぬことこそ、己が真に願うことである。

世間を見渡せば、どこに、溺れ死ぬことができそうな、深い海があろうか。本だ。本には、底知れない深淵がある。己はそこへ飛び込み、克己に務めると同時に、己自身を癒している。

苦悩と絶望と不幸とに窒息しそうになりながら、潜れるだけ潜ってみる。そうして死んだものも、現に存在するのだ。だが、己は欲する。己自身の海で死ぬことを。他人の海ではなく。己の海で。そのためには、己の海は深さが足りない。

 

人間には海がある。混沌をつくり出すものはなんだ。不幸はそのひとつだろう。人間は不幸な存在だが、動物は幸福だ。

私は感情だ。ゆえに傷つかないことを欲する。己は違う。精神だ。不幸を欲する。なぜなら、不幸だけが苦悩を生み、生み出した苦悩によって、海が深くなることを知っているからだ。己は未知なる海底から、宝を発掘することを夢見ている。仮に、その途中で死んだとしても、己にとっては本望なのだ。

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ニーチェはおもしろいことを言う。詩人は不誠実であると。洒落た言い回しによって、海面に波をたて、海の深さを誤魔化している。そして、私もこれには思い当たる所があって、耳が痛い。ああ、だが、赦せ。これは羞恥のなすものだ。己の言葉は、直接表現されるには、あまりにも稚拙すぎる。その恥に堪えられぬから、言葉の格に私を閉じ込めたいのだ。

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「幸福は、求めるものではなく、あるものだ。」この何のしゃれっ気もない言葉は、幸福に羞恥をおぼえる人間が、幸福を享受する唯一の道ではなかろうか。断じて、幸福を求める人間が、幸福になるための言葉ではない。なぜなら、その場合、すでに幸福を求めてしまっているからだ。

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羞恥心。人間が人間たる、うぶな心。偉大なる人間の母よ。己はお前をもっと抱きしめたい。そうしたら、ほんとうにあるんだろう。愛というものが。己はさらなる孤独がほしい。死にそうになるくらいの深い孤独を与えてくれ。

 

【書物の海 #25】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ

「わたしは羞恥を感じます。」

すると声なき声はまたわたしに言った。「幼な子になって、羞恥をすてることです。青春の誇りがまだあなたにつきまとっているのです。あなたはおそく青年となった。しかし、幼な子になろうとする者は、おのれの青春をも克服しなければなりません。」

 

2023.10.28

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