己だって昔は世間に出て交わって空しいことを学び、空しいことを教えた―
己が自分の考えた通りを筋道立てて述べると、反対の声がその何倍も大きく起こってきたものだ。だから己は不快な世俗を逃れて、寂寥と荒涼の中に赴いて、そして全くひとりぼっちになるのもいやで、結局は悪魔に身を委ねたというわけではないか。
孤独の寂寥と荒涼に耐えうることができない弱い人間は、悪魔を友として場合によっては悪魔に身を委ねるしかないのである。殺人、強盗、強姦、悪魔の仕業に思われるあらゆる悪行も、それを背後で牛耳るのは、冷たく、殺伐とした悲しい孤独である。
貧困も孤独と似ているところがあり、悪魔が棲みつきやすい場所である。日本特有の美徳である、清貧とは神に守られている状態であるが、貧しさも度が過ぎれば、信仰が試されるというわけだ。
本当に純粋なものは、汚れたところから生まれる。すべてを失ったときにすべてを得たのは、失明しながらも「失楽園」を書きあげたジョン・ミルトンや、難聴になりながらも作曲を遂げたベートーヴェン、投獄され命を落とされる寸前に救われた体験をした、ドストエフスキーからも分かることだ。
孤独な人間、そして困窮している人間に告ぐ。私もその真っただ中にいる。狂気なほどのあなたと比べたら、私を取り巻く寂寥も荒涼も、たかが知れているかもしれない。だが、こうして言葉を書くことで、やっとの思いで正気を保っているのだ。
神よ、見ているか。どれだけ地に堕ちようとも、私は天に向かうことを諦めない。サタンよ、力を貸せ。お前は隙を見つけて、己を奈落に取り込もうとする。だがそうはさせぬ。この寂寥と荒涼から秘められた力を取り出し、我が孤独の友となれ。
【書物の海 #13】ファウスト[二], ゲーテ
ところが己が美の司祭になってこの方、一体どうだろうか。
この世はそれ以来初めて生き甲斐のある、根のしっかりとした永続きするものになったのだ。
もし己がお前から背くようなことがあったら、
己の息の根は断たれてしまっても構わぬ
お前こそ、己が己の一切の力の働きを、
情熱のすべてを、憧れと愛と、
拝跪と狂気とを捧ぐるに足る存在だ
虚無とは無限に繰り返される刹那である。刹那の喜びによって耐えがたき虚無を相殺している。それを心は知っているから、顔は笑っているときさえも、本当は静かに絶望しているのである。現代人がじっとしていられないのは、絶望が静かに顔を見せ、肉体がその恐怖に戦慄しているからである。
虚無の果ては無である。死が終点であり、すべては無に帰するのである。私はファウストの言葉に「静かな絶望」を燃やしたときの感動を思い出す。絶望は依然と存在するが、こいつには希望をもって対抗できる。それよりも、この世にはじめて生き甲斐を感じ、大地が永遠につづくことになったことが嬉しくてたまらないのである。
2023.10.16
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