私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに。[351/1000]

「俺(おい)は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生れあわせたか」

(中略)

迫害の時代でなければあの男も陽気な、おどけた切支丹として一生を送ったにちがいないのだ。

遠藤周作,「沈黙」

 

遠藤周作の「沈黙」にキチジローという男が登場する。キチジローは弱い人間だった。

彼は切支丹であったが、自分の命のために一度目は故郷を捨て、二度目は宣教師を裏切り、三度目は踏み絵にも足をかける。何度もキリストに背くたびに、懺悔して償おうとするが、再び死を目の前にむかえるとやっぱり怖くなって、同じ過ちを繰り返した。

 

踏まなければ死ぬが、踏んだら生きられる。役人も人の心がある人間だから「形だけでいいから踏め。命を無駄にすることはない。それでお前の信仰がなくなるわけじゃない」と踏むことを進める。しかし、神を信じる人間は、頑なに踏もうとせず殉教していった。

 

しかし、キチジローのように、神を信じていても、死ぬのが怖くて踏んでしまう人間もいた。

己の弱さを恥じて、惨めにも泣きながら赦しを乞うキチジローは、卑怯でどうしようもない奴だった。しかしどうしてか、私はこの男がもっとも愛しかった。「カラマーゾフの兄弟」を読んだときも、同じ気持ちになった。どんな人間にも好かれたのは、誠実で純粋な人柄であるアリョーシャだったが、愛しさを感じずにはいられなかったのは、父親殺しの罪を着せられて裁かれる、酒飲みでダメ人間なくせに、気高くあろうとするミーチャだった。

 

この世界には、弱い人間がいる。弱さゆえどこまでも堕落していく。しかし、それを恥じ、苦しみ、神に赦しを乞うならば、そういう人間を神は見捨てないどころか、苦しんだ分だけ余計に愛を与えてくれる。彼らが、殉教を遂げる人間にも劣らず美しいのは、綺麗なものだけで構成された美しさではなく、汚いものも混じった美しさがあるからだ。神の愛もそれだけ大きいからだ。

 

私はキチジローのように弱い。ミーチャのように弱い。だからこそ、堕ちるくせに信仰を捨てきれず、恥と後悔の念に苦しむ彼らが同朋のように愛おしい。

愚かな私はあと1ヵ月弱で仕事をやめる。森を買うと、生活にかかるわずかな金だけが残った。金を払った今、不思議な感覚にある。もし、このまま不動産会社が悪者になって詐欺をはたらき、私が森を手にすることなく、金も仕事を失ったとしたらどうなるだろう。不思議と憎しみはなく、そのくらいの受難を私は受けて当然だとさえ感じている。迫害のない今日は平和であるが、苦しむ人間は多い。

 

遠藤周作の「沈黙」は、タイトルのとおり、神の沈黙がテーマとなっている。受難にあって地上の人間が苦しんでいても、沈黙を守り続ける神に、主人公の司祭は疑問を抱き、ついには恨みとなる。小説の終末、キリストがこの司祭に放った一言が私には忘れられない。

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに。」

救いは既に、心にある。

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