社会から逃げたい気持ち。逃げてもいいぜ、でも逃げる必要なんてないんだぜ[3/1000]

長野県の蓼科高原にある、白樺湖(しらかばこ)の畔で朝を迎えた。白樺湖の大きさは、諏訪湖の36分の1しかなく、こじんまりとしている。リゾート地ということもあって、慣習的に訪れる健康的な住民もおらず、とても静かだ。走っている女性や、散歩している老夫婦がいないのは少し寂しいが、この静かなひと時も楽しむことにしよう!大きく深呼吸して、、、、、新鮮な空気を言葉に込めてお届けするよ!

 

昨日は、軽井沢にある300万円の山林物件を見に行った。軍資金は200万円。軍資金といっても、これが今の全財産で、2年前、世界一周のために皿洗いをして貯めたお金と、友人に拾ってもらった小さな会社で、引きこもりながら働かせてもらって貯めたお金。全部すっからかんになってもいい。何なら、全部すっからかんにしたいさえ思っている。0円で生きていける拠点にしたい。お金があれば、お金に頼る生活しかできない。お金がなければ、お金がないなりの知恵を絞ろうとする。お金がないときに「お金があったらなぁ~」と言葉を発するのは、知恵を絞ることをそもそもしていない。お金に頼ることが当たり前になっちゃっていて、お金で解決することが前提にある。

 

ずっと、ある旅人が頭から離れない。日本海側のとある道の駅で寝泊まりしていた彼は、無一文で10年近く生きているという。

私が彼に、熱々の珈琲をご馳走すると、代わりにワラビのお浸しを分けてくれた。「このワラビのお浸しはどうしたのか」と聞くと、その辺に生えているのを取ってきて、空き缶を上手に使って重曹であく抜きをし、自分で浸してつくったという。「山菜が取れないときはどうするのか」と聞くと、家のドアをノックして「お手伝いするので、代わりにおにぎりをください」と交渉するという。

最初はなんて突拍子もないヤツだ!とたまげたが、冷静に考えてみれば、お金を介していないだけで、やっていることは理にかなっている。私たちは、自然の恵みに生かされていて、人との交易によって足りないものを得る。その辺に生えているワラビは、本来自然に生きる人なら誰でも享受できる。しかし社会に生きているかぎり、その恵みに目を向けることすらしない。大半の人は野ではなく、スーパーに行く。

私が珈琲を差し出し、彼はワラビのお浸しを差し出した。何だか珈琲を差し出した自分がつまらないように感じた。その違和感は、私が差し出したものが、社会のインスタント品だったからだろう。彼は自分の手足で獲得し、知恵を絞ってあく抜きし、作り出した、自然のものを差し出した。自然のものは温かい。愛がある。そこに私は、自分の差し出したものと、彼の差し出したものの温度差に違和感をおぼえたのだろう。また、これが私がもっと自然に身を浸したい理由でもある。

なんだか悔しいから、自然の中では、逆のことをしたい(笑)一から耕した畑で作った野菜のスープで、インスタントに毒されたあなた心を震わせるのだ!そんな様子を見て、ニヤニヤしてやるのだ!そんな妄想を朝から膨らませる。

 

肝心の見に行ってきた山林だが、やはり山林を持つというのは夢があると思った。300万かかるとはいえ、木々潤う深い緑の中で、好きなことができるというのはロマンに溢れている!だが一方で、山林を所有しようとすることに違和感をおぼえる自分もいる。先に述べたように、山は本来、誰のものでもない。「お金を出して所有権を得ることは、自然に対する冒涜ではないか」なんて考えてしまう。

正直、このところの自分なりの答えはまだ見つけられていない。もちろん、「所有する」ことになったとしても、「独占する」気は微塵もない。オープンでパブリックな場にしたい。誰でも来れるようにしたい。しかし、パブリックにしたからといって、皆のものでもない。ただ自然は自然としてそこに存在しているという感覚。ただそこに存在を感じるからこそ、私たちも人間もただここに存在していることを認められる。

生きることに、お金がかからない場所。生きることに、お金をかけなくてもいいと気づける場所。自分が自然の生物であることを認識できる場所。自分でつくった野菜に「うめぇ!!!!」と感動できる場所。真っ暗の森で、焚火をして、心ある会話ができる場所。

 

心がやられていたとき、山で隠居したいと思っていたことがある。その時は、社会から「逃げたい」という気持ちが根底にあった。しかし今思うのは、社会から逃げる必要なんてそもそもなかった、ということだ。社会から逃げたいと思うのは、社会の延長線上にしか、自分の生き方を描けないからだ。これは、小学校の頃から社会にどっぷり浸り続けてきた代償かもしれない。社会で生きることが当たり前になりすぎて、何をするにも社会の延長線上でしかものを考えられなくなる。

当たり前だけれど、自然は社会の延長にはない。ネットフリックスをみたり、アマゾンプライムを見たりする現代的な暮らしとは別に、自然で自給自足の暮らしをしてもいいわけだ。すべてを延長線上に考えると、矛盾が生じる。そして矛盾に苦しむ。現代的な暮らしも、自然な暮らしも、どちらも正解で、どちらも選択していい。暮らしに限ったことだけじゃない。オーガニック食材で健康的な食事をしたいと思うこともあれば、肉を豪快に食べたいと思うこともある。自分の気持ちは、どちらも正解だ。

最近感銘を受けた、坂口恭平さんの著書「独立国家のつくりかた」にこんなことが書いてある。

学校社会は変わらない。変えられるのは放課後社会とのバランスだけだ。 学校社会は消せないけど、認識を変化させることはできる。それが「考える」という行為。学校社会が無数の中の一つのレイヤーであり、唯一の無意識領域のレイヤーであることがわかれば、もっとうまくバランスが取れる。

学校社会、つまり無意識の匿名化したレイヤー、つまり社会システムは絶対に忘れてはいけない。このレイヤーから逃れたいと希求する人もいるけれど、それはとんでもない話だ。これがあるから社会は成り立っている。つまり、これは地面のようなものだ。アスファルトです。アスファルトになってしまっているので、息苦しいのだが。本当は社会システムもアスファルトを壊して、ぼこぼこの土のようになればいいのだと思うが、なかなかそうなるのは難しいだろう。

引用:「独立国家のつくりかた」坂口恭平

 

この本は、とっても面白かった。私は自分に生じる矛盾に長いこと苦しんできたけれど、この本に勇気をもらった!興味のある人は、ぜひ読んでみて!

さて、今日も1日が始まる。果たしてこれだ!という山林と巡り合えるだろうか。白樺湖の畔より!今日も自然と、社会を生きます(笑)

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