すべてを破壊し尽くして、何もない所で蘇りたいだけなのだ。[203/1000]

穏やかで温かい自然いっぱいの島に漂着することを望んで、大海原に身一つ放り出される。溺れそうになりながら必死に泳ぐも、海の大きな力の前では無力であり潮の流れに身を任せることしかできない。何度も始まりの島に戻されながら、夢見るその島に辿り着くことをただ願い、何度でも大海原に放り出されていく。そんな気持ちである。

 

何もかもすべてが嫌になる瞬間がある。今がそうである。仕事も、書くことも、すべてを放り出して生きることを放棄したくなる。干からびるまで砂漠に倒れたい。土に還るまで山に埋もれたい。風になりたい。空になりたい。波になりたい。

周期的に、自分の身を無気力に投げたしたくなるのは、自然に還りたい願望であった。還るもなにも、そもそも人間も自然の一部じゃないかと思えば、そのとおりなので、自然じゃない生き方をしていることになるのかもしれない。

 

心が前を向いているときはつくることを好む。つくることの歓びは、年末年始に母に頼まれて、木材で物置小屋と塀を作ったときに感じていた。最高であった。反対に、心が後ろを向けばすべてを壊そうとする。人間関係を壊し、仕事を放棄して、自虐的になり、自分の人生などぶち壊されてしまえと投げやりになる。つくることと壊すことは、どちらも心の作用であり、向きが違うだけである。

こう言うと、壊すことがいかにも悪いように聞こえてしまうが、壊したい心の声を聞いてみると、すべてを徹底的に破壊し尽くして、蘇りたいと言っているように感じる。生きたいが、どうしようもなくなってしまったので、一度すべてを死に帰して、新しく生きたい。だからすべてを破壊したい、と言うのである。

 

汚れた血液を浄化するために身体は病気を作り出すのなら、不自然な心を浄化するために破壊衝動は生まれている気がする。身体も心も宇宙から授かったものである以上、宇宙と調和するためのあらゆる自浄手段が、あらかじめ創造主によって仕組まれているようである。何もかもうまくいかないとき、自浄手段が始動する仕組みである。

 

中村天風は創造主を宇宙霊と言った。執行草舟は暗黒流体と言う。呼び方は、天でも自然の法でも気でも神でもいい。この大きな力が現象界に形をもったものが人間なのだとしたら、我々はこの大きな力が小さく具現化された結晶体である。流体は自由であるが、固体は不自由であるゆえ、不器用につまづき、間違いを繰り返す。それが昨日も書いたような人間の不完全さである。

しかし流体部分に目を向ければ、すべてが愛や友情、誠実と勇気で覆われている。現世を彷徨いながらも、愛に生きられた瞬間は何度もあっただろう。あらかじめ仕組まれた自浄作用のように、自然の法に倣った大きな力が働いているのだとしたら、肉体をもった人間として生きることにも大きな加護を感じる。

ぐったりしていても、よく眠ればすぐに元気になるだろう。氷解の瞬間と温もりに焦がれるも、すべてはいい方向に動いているから、どうか安心なされたい。

 

精神修養 #114 (2h/235h)

旅がしたい。人生は旅であるという広義の旅ではなく、狭義の旅がしたい。つまり普通の旅がしたい。バックパックを背負い、音楽と自由と汗と苦痛に満ちた異国の風に吹かれたい。これは肉体が自由を渇望している証拠であった。

続ける義理はあるが仕事で心が蝕まれ始めている。人に会いたい。楽しく生きたい衝動に駆られている。エキサイティングに生きたがっている。完全な欲望である。自分を死なせるよう散々瞑想してきたが、すっかり生きている。

悩みを抱えることも、寂しさに潰されそうになることも自惚れであると以前書いた。自分が好きになり過ぎている。自分が中心になりすぎている。自分がかわいくなりすぎている。自分が生きれば、自分を生かしてやりたいという現世的な欲望が勝ってしまう。それほど苦しんでいるが、生の衝動に染まり過ぎた自業自得なのだろう。

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