ルソーが晩年に書いたという「孤独な散歩者の夢想」の一句を紹介したい。
僕の魂は今もって活動している。それは今もって感情と思考を生産している。そして、それの精神的内的生命は、一切の地上的現世的な利害関係の喪失によって、なお一層発育したものらしい。僕の肉体のごときは、もはや、僕にとっては、一の邪魔ものであり、一の厄介者であるにすぎない。だから僕は、生きている今のうちから、できうるかぎり、それから離脱しようとする。
この本は1778年に書き上げられたという。224年経っても、魂の鍛錬に価値を置く人間の姿は全く変わらないというのは驚きだった。
最近の瞑想で、瞑想の大きな目的は魂の鍛錬であり、魂と肉体はお互いに拒絶しあい、この拮抗作用の中で魂は成長する、ということを感じていた。224年前の人間の言葉が、最近の自分の言葉と重なり合うのは、なんとも新鮮だった。
科学の発達した現代において神を信じることは難しく、物質主義が蔓延する今日で、魂に価値を置く生き方は大きな障害を伴う。今日も街に出れば誘惑だらけで、気を抜けば何の苦もなく物質主義に飲み込まれる。
そもそも、魂に価値を見出そうとする者すら稀であり、もしそんな人間がいたとしても「変わり者だ」と興味すら持たれないのが現実だろう。そんな人間こそ崇高だと思うが、崇高だとすら思われないのが、物質主義がすべてとなった人間の感覚だと思う。
今日では、肉体よりも魂に価値を置くなんて言えば、一歩間違えれば、危険思想にもなりうる。魂に価値をおくというのは、命よりも大切なもののために生きるということで、言い換えれば、それは何かのためであれば肉体の死を厭わないということだ。
自分の命より大切なもののために死ぬというのは、肉体が第一となった現代人からしてみれば狂気でしかなく、その心は死のどす黒い恐怖に支配される。「自分の肉体のため」に生きるのが当たり前になったのが今の物質主義だとすれば、「自分の命よりも大切さなもののために生きる」という魂の崇高さは完全に埋もれてしまった。
今日、魂の価値を追求する生き方は、時代錯誤もはなはだしいと思う。周りに理解されない価値を、自分独りで探求しなければならない。それゆえ、いつも孤独がつきまとう。
しかし冒頭で紹介したルソーのように、時代を超えても、魂の鍛錬に価値を置く人間の姿は全く変わらない。それゆえ孤独な道ではあるが、書物の中には古今東西、数えきれない同志がいる。触ることはできないが、言葉の奥に魂を感じ繋がれるこの瞬間は、孤独な人間にとって大きな愉しみでもある。
時代錯誤もはなはだしい生き方であることは十分承知である。私自身、まだこの生き方に100%の自信を持てていない。一般的な現代人であるゆえ、現世の悩みも絶えない。
しかし、どんな生き方がしたいかを考えたときに、死ぬときに一切の後悔なく笑って死ねる、という一点だけはブレずにある。そこを目指そうとすれば、魂の価値の探求し、本物の愛を知る前には死ねないと、何度も思うのである。
死ぬことが怖い。死ぬことが怖い人間だけど、この怖さの奥にある価値を知りたい。この魂の好奇心を前にしては、肉欲を満たすことは取るに足らない小さな問題でしかない。
生き方を間違えていることを恐れながら、それでも行きつく先はやっぱり、授かった命を死に向かってどれだけ燃やせるかだった。
精神修養 #56 (2h/120h)
湖畔沿いに転がる岩の上で、温かな日差しを浴びながら瞑想をすることにした。
絶え間のない小鳥のさえずりに、心地よい幸せを見つけながら、昨日の苦悩がすっかり消えてしまったことに、なんとも気分とはいい加減なものだと改めて思う。
幸せも不幸もエネルギーであるかぎり永遠はないのだ。)幸せな人間の中にも不幸はあるし、不幸な人間の中にも幸せはある。幸せが形のないエネルギーであるかぎり、1つの「波形」に固執するほうが、事を紛らわしくする。(これは昨日の記事に書いた通り)
これは現代に蔓延る幸せ病の副作用かもしれない。
[夕の瞑想]
宿命について考えたい。宿命についてあまり向き合ってこなかったが、これも1つの大きなテーマである。
小学生からひたすらスポーツに打ち込んできたことも、英語と出会いアメリカに1年留学したことも、教員を志し内定を蹴ったことも、社会に挫折し放浪の旅に出たことも、家のない生活をかれこれ3年近くしていることも、引きこもり鬱になったことも、友人の会社に拾ってもらったことも、すべては宿命だったと受け入れたい。そして今まさに宿命と向き合わされていることも宿命だったといえる。
宿命を受け入れるといっても、言うは易く行うは難しであることは間違いなく、実際受け入れることがどういうことなのか、本当の意味は分かっていない。これまでの人類史の上に、自分が存在する以上、歴史もまた宿命である。ただし、歴史を知らなければ、その歴史は私の中では存在しないことになる。
最近、山本常朝の書いた葉隠に出会ったことも、今となっては宿命であるが、出会わなければ、葉隠の歴史は私の中では存在しなかった。出会ったものすべては宿命であって、出会わないものは宿命でなかったといえる。
私のこの言葉を誰かに読まれていることも宿命であって、読む人にとっては、私の言葉と対峙したことも宿命なのだろう。
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