無力な欲望、欲望の代替[932/1000]

正月はご馳走に恵まれたが、玄米にかなう食べ物は一つもなかった。そりゃそうだ。私にとっての玄米は、胃袋を満足させるにかぎらず、魂に力を与える命の源流でもある。すき焼きも刺身も、そりゃ美味いが、所詮は肉体レベルの話だ。魂を主眼に置くとき、彼らはあくまで玄米を際立たせる脇役にすぎぬ。欲望を満たすには長けるがそれだけである。

なにも、肉や魚が嫌いだと言うのではない。精進に偏って、肉体が置いてきぼりになるときは、むしろ欲望を燃やすことで、力が湧くことは多々ある。だが森で暮らしていると、案外肉を食わずとも、ふつうに生きていけてしまう。ご近所さんからもらった野沢菜の漬物だけで、一週間玄米を食ったこともあった。何もなければ、キャベツや白菜をてきとうに塩茹でしてお供にする。それすらないときは、卵や納豆をかけて食えばいい。

 

何の不満もない。一日の活力が漲れば、それで十分である。先も書いたとおり、精進に偏りすぎて、肉体が置いてきぼりになるときだけ、肉を食えばいい。肉体を使う労働者なのだから、それくらいの殺生は赦されぬものか。他の命を殺して生きる、自覚と覚悟はあるはずだ。

令和の似非米騒動から半年が経つ。私にとって米が食えぬことは生命の危機であったが、米がなくなっても、案外困らなかった人間が少なくなかったことを後々知った。米がなくなれば、パスタやパンを食えばいい。たしかにそのとおりだ。生きるために、最後の最後は、あるものを食うしかない。だが、何というか…、言葉に魂がないようで悲しくなったのである。力の選択ではなく、無力な欲望、欲望の代替に思えたのである。

最後の最後に残るもの。人間の礎として支えつづけるものを、私は愛するのである。

 

2024.1.8