柿渋を知っているだろうか。まだ青い柿を潰し、水を混ぜて発酵させ、臭いが出てきたら濾過して圧搾する。液体を一年熟成させれば、柿渋はできあがる。世話になっている爺ちゃんから、昔は家の中のあらゆるものに柿渋が塗られていたと聞いた。水に強くなるので、柿渋を塗ったザルなんかは丈夫になり、二代に渡って使うこともできたらしい。現代の家づくりは、人工塗料で済ませてしまうが、昔は建築にも柿渋は当たり前に使われていたのだ。毎年、自分たちで柿渋を作り、慣習は先祖代々伝えられていった。
昔の山はキノコも山菜も豊富に取れたことを知っているだろうか。かまどを使って料理をする時代、人は薪を求めて山に入った。倒木や落ち枝は、貴重な燃料として拾われたし、乾燥した落ち葉もかき集めると、器用に藁で束ねられ焚き付けとして使われた。樹は人々の手で片付けられ、草は人々の足で踏まれた。そうして、山は自然と綺麗になったのだ。風が吹き抜け光が程よく入り、キノコや山菜がよく採れた。生活からかまどが消えて、薪を必要としなくなった今は、山に入る必要もない。金にならなくなった山は放置され、鬱蒼とした針葉樹林では、かつての豊かさも影を潜めた。
昔の人間が美しかったことはほんとうである。だが、必ずしも昔の人間が優れていたということではない。生きるために慣習が必要があり、慣習に揉まれて人は美しくなったのではなかろうか。美しい魂もまた、生きるために必要で生まれたにすぎぬ。今日、社会の汚濁に耐えられぬというのなら、物質社会に苦しみを抱くなら、新たな魂は紡がれてしかるべきだ。世相が変わっても、人間の奥底に輝くものは絶えずある。人間に秘められた力を固く信じる。
2024.12.28