鹿の血を飲む猟師に憧れる[498/1000]
言葉を綴ることは、そう難しいことではない。流れる血が自ずと言葉になるのだから。 しかし、血が流れないときは、言葉を綴ることが途端にできなくなる。こういう日は、森に寝そべって天を仰ぐも、風に揺られる大木も、吹き落とされる葉…
言葉を綴ることは、そう難しいことではない。流れる血が自ずと言葉になるのだから。 しかし、血が流れないときは、言葉を綴ることが途端にできなくなる。こういう日は、森に寝そべって天を仰ぐも、風に揺られる大木も、吹き落とされる葉…
母の日にカーネーションの花をおくったこともなければ、父の日にネクタイをプレゼントしたこともない。誕生におめでとうと伝えたこともなければ、初任給で旅行に見送ってやったこともない。 私の記憶にある最後の親孝行らしきものは、小…
私は感情の人間だ。恥ずかしながら、過去には、積もらせた怒りを爆発させ、人間関係を何度もぶち壊してきた。ゆえに、こう思うと怖ろしくてならない。もし私にまともな精神が宿れば、真っ先に破滅してしまうのではないかと。夜な夜な気が…
精神修養とは、己の海に飛び込むことである。息がつづかず、もう海面に顔を出してしまおうかと思うところを意志の力によって克服し、さらに深みへと潜っていくのである。そして、海底で溺れ死ぬことこそ、己が真に願うことである。 世間…
「私」と「己」は別物だ。 「私」は感情的であり、「己」は精神的だ。「己」は美の下に服従し、魂を宿す混沌だ。 「己」が「私」に命令を下し、「私」は「己」に服従する。 命令と服従を、束ねる意志こそ、人間が人間たる所以である。…
朝も昼も夜も、ニーチェを読みつづける日がつづく。当然だが、一朝一夕で物にできる思想ではあるまい。訳者の氷上英廣氏は、解説でこう述べる。「何千年の未来へひびく声を持つ」と。連日、述べているように、これは人類の運命に挑戦した…
神が死んだか、死んでいないかという議論など、ほんとうはどちらでもよいことだ。 そこに固執するのは、まるで自分の家が留守のあいだに、何者かに盗まれることを怖れて、一歩も外に出られないようなものである。そうではない。家のもの…
ニーチェは「神は死んだ」といった。天国は消滅し、人間は生きる指針を失った。 われわれに必要なのは、神の啓示した律法や、古い道徳的慣習などではなく、この新しい大地に新たな意味をする超人だと、ニーチェは言う。 …
隠遁生活によって、毎日書物に浸かる日々をおくる中、私がひらすら問うていることは、「いかに死ぬか」であると思う。「思う」というのは、自分でも何を求めて書物を貪っているのか、確証が得られていない。ただ、歴史にしても、文学にし…
わかることしか書けない。言い換えれば、自分の程度に堕落させたものが言葉となるのだ。発された言葉は、まばゆい光を放ち、価値のすべてを含有しているように思われるが、ほんとうは、言葉にならなかった見えない部分、つまり、言葉が生…