道徳に反旗を翻すことを血に誓い、はや数日が経った。私の日々は、相変わらず爽快の一言に尽きる。朝の6時から家づくりに夢中になり、気づけば夕刻になっているという具合である。それからご飯の準備をしながら、今日の記事を書かなければとブログを書く。家づくりは楽しくて仕方がない。道徳によって行動を委縮させるものがなくなり、いっさいの不安や杞憂なく、純粋に作業に没頭することができるのだ。道徳に縛られているときは、一つ工程を踏むにも、間違いを恐れたり、つまらぬことを考えてちっとも作業が進まなかった。しかし今や、行動を規制するものがなくなり、文字どおり自由になったのだ。自分でも驚くほど大胆かつ創造的に作業が進むようになった。
「道徳を打ち破れば悪人になる」という認識は誤りである。地に堕するか天に向かうかは、檻を突き破った後の話であり、檻を突き破ること自体に善も悪もないのである。そもそも道徳は、何の権利があって人間を束縛するのだ。これにより社会の秩序は保たれるが、(何度も言おう)社会のルールを守り、善人として生きるために我々は生れてきたのではない。その生命をまっとうするところに真の意義がある。
ここでいう道徳とは、教条化したものと考えている。教条とは固着であり、流れの妨げになるものだ。エネルギーは流れていないとおかしくなる。東洋医学で気滞という。あまりにも道徳に身を支配されれば、体中を血栓だらけにするようなものなのだ。
しかし、気に留めておきたいこともある。それは、常に打ち破りつづけることだ。1つ道徳を打ち破ると、そこに新しい世界が見えてくるが、その世界が答えだと思ってそこに根を張ろうものなら、それが新しい固着となるのである。ゆえに、一つの安住の地を求めようとせず、絶えず打ち破りつづけることが必要だ。慣れてきたころに、その慣れたものを打ち破る。バックパッカーをしながら、何週間も同じ宿に泊まるのではなく、2,3日ごとに宿を変え続けるようなものである。
三島由紀夫の「葉隠入門」に書かれている一節を思い出す。何度も引用しているが、私はこの言葉が大好きであり、ここでもまたこの言葉に繋がったのである。
「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。
三島由紀夫「葉隠入門」
絶えず流れつづけよ。時に爽やかな渓流となって、時に烈しい濁流となって。時に滝のように下降して、地を蹴とばして吹きあがれ。
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