運命を愛せば、不幸は不幸ではなくなる[405/1000]

「大丈夫」という言葉が口癖になれば、きっと日常は愉快なものになるにちがいない。しかし、心配性の私は、今日も相変わらず、「こんな家でほんとうに大丈夫か?」と不安になってばかりであった。

朝7時から屋根をはる作業をはじめ、飲まず食わずで疲労こんぱいになりながら、16時に作業を終えた。柱から垂木まで、すべてが自然木を使った曲がったものであるので、屋根もいびつな形となった。雨漏りはするだろうし、嵐がくれば吹っ飛ぶかもしれない。あまりにも不格好なので動画にするのも恥ずかしい。

しかし、森のなかの家の屋根が嵐で吹っ飛んだことは、いつの日か武勇伝になるだろうし、不格好な家もかわいいと思える日がくるだろう。そう思うと、ほんの少しであるが気は楽になる。

 

ちょうど1年くらい前、NHKの某プロフェッショナル番組に出た、教育者の井本先生のもとに遊びに行った。そこに通う子供の親さんたちが、「うちの子供は大丈夫かしら?」と寄ってたかって井本先生に質問することに違和感をおぼえ、「どこまでが大丈夫で、どこからが大丈夫じゃないのですか?」と質問してみたことがある。

ぽかーんと口をあけたままの親さんたちに、「未来など憂おうと思えば憂うことなどいくらでもある。だから今大丈夫であればいいではありませんか」と、偉そうに意見したものだ。しかし、そう楽観的になれるときばかりでなく、どうしても心配になるのが愚かな人間である。

 

もし大丈夫と、大丈夫でないことの境界に一線があるとすればどこだろう。それを今日、自分に問うてみると、そもそも心配性の本質は、すべて”運命を受け入れる覚悟”に由来すると自覚した。どんな不幸も、運命を定めとして受け入れる覚悟さえあれば、まったく怖くなくなるのである。

山で遭難しても運命。事故にあっても運命。病気も運命。今日もつまらない生き方しかできなかったことも運命。すべては宇宙の意志であって、大きなものに守られていると感ずるとき、不幸も含めて人生を愛せるのである。

 

大丈夫か大丈夫ではないかの問題など、匹夫の勇である。そんなつまらないものよりも、この偉大な宇宙に広がる大いなる力に関心を示さないか。身の全てを宇宙に託し、運命のなすままに、そこに愛を見出せれば不幸も不幸でなくなるだろうに。

思えば、もうとっくに大丈夫じゃない生き方に足をつっこんでいるのだ。それでも生きていられるのは、それ自体が神の意志であると信じるからであろう。生きているのは、神がお前を生かすからであり、不幸が起きるのは、神の怒りに触れたか、運命のしわざである。だから、今日生きてたら、もうそれでいいのである。ただ神を感じていたらいいのである。

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