岐阜は笠置山。ここで山ごもりをして、今日で8日目になる。
持ってきた食料と水が尽きたので、山を下りることにした。ちょうど1週間。生きるのに必要な分量がなんとなく分かった。
<1週間を生きるのに必要だった分量>
・水 (40L) ・玄米(2kg) ・かぼちゃ(半カット) ・すくなかぼちゃ(1本)
・塩(100gくらい) ・味噌(大さじ2杯) ・インスタントコーヒー(40g,20杯相当) ・ナッツ(500g)
全体は簡素であるが、量としては申し分がなく、毎日米をよく噛んで食べた。身体はかなりしっかりしている。
かぼちゃを毎日食べていたので、後半は、かぼちゃの甘さに気持ち悪くなって、味噌で米を食べることも増えた。しかし3日目以後、甘いものが食べたいという気持ちにいっさい苦しめられることがなかったのは、かぼちゃの甘みのおかげもあっただろう。
また、簡素にしすぎると、生活が味気なくなりすぎて、退屈さに潰されるという点において、コーヒーは唯一の楽しみで、心に大きな至福を与えてくれた。陰の立役者といっても過言ではなく、コーヒーがなければ、山ごもりはずっと過酷なものとなり、今の私では耐え切れなかったと思う。
ナッツは、コーヒーに次ぐ、唯一の嗜好品だったが、手が止まらず、500g全部を初日で食べきるという暴挙に出てしまった。これは無くてもよかったかもしれない。
精神修養 #17 (2h/44h)
・孤独に潰れされそうになる中の瞑想。いつもより身体中が冷めたく感じる。冷たさが孤独感を助長させている。
・「感情を対処しなければいけない」と力んでいる自分に気づき、力を抜いて、呼吸に身を任せる(ゆだねるという感覚)。
・抗うことをやめると形を保っていた身体中の何かが、支えを失ったように、各々がバラバラに宙に散らばっていくのを感じた。
・1時間の瞑想で右肩上がりに集中力が上がるときと、途中で眠くなり後半につれて失速する2パターンがある。今回は前者。
・44時間瞑想をしてきて、呼吸に気づいている時の意識がはっきりとした実感がある。しかし意識を呼吸に置きつづけることはいまだ困難で、しょっちゅう思考の中を彷徨う。
・身体中に酸素が充満すると、呼吸が限りなく小さくなる。一度、まるで呼吸がとまっているような瞬間があった。
・呼吸が虫の息のようでも、苦しさは一切ない。皮膚呼吸でもしてるんじゃないかと錯覚するくらい、全身から酸素が入ってくるようだった。
山道を歩きながら、ふと、山ごもりをしない人生は損だと思った。特に男はなおさら、山ごもりはしたほうがいいと思った。
「〇〇しない人生は損」という言い方は、不安を扇動するようであまり好きではないけど、あえてそういう言い方を採用したいくらい、俗欲から距離を置いて、自己を孤独に探求する時間は、古今東西、普遍的な価値があると思った。
私自身、まだ少し足を突っ込んだ程度で、山ごもりといっても、本当の意味で山ごもりはしておらず、その真髄は分かっていないところが多い。(電波も絶てていない)
しかし、岩手は遠別山5日間の山ごもりと、今回の笠置山7日間の山ごもりは、なんというか・・・・・間違いなく「自分のためになっている」という感触がある。まだうまく言葉にできないけど、「人生そのもの」「命そのもの」への肥やしになっているような感覚。(肥やしとなる対象が大きすぎて、言葉にしづらい)
少なくとも、髭の似合う男には、なっていく気がする。
短いけど、最後に中村天風の言葉を紹介して、ブログを閉じたいと思う。
中村天風もインドの山で3年修行をしている。瞑想をしていたら、足に何かを感じ、目を開けるとヒョウが足をペロペロ舐めていたという話が、とても印象に残ってる。肝が据わっている人間は、それだけの経験をしている。
信念は煥発しなければ、強くはならないのである。信念は出たくてうずうずしているのに、消極的な観念がそれに蓋をしていて、諸君の心の底の底の底に、いつのまにか下積みにされてしまったのである。だから、信念は煥発しなければいけない。信念が本当に煥発されると、「実際、これが本当に自分の心か」と思うほど、驚くべきありがたさが自分の心に生じてくる。信念が煥発されてくると、くだらないことは考えないし、神経は過敏にならない し、ことあるも常にことなきのようになれるのである。
中村天風. 運命を拓く (講談社文庫)
笠置山の山ごもりは終わったけど、まだまだ修行はつづく!
いざ、下山!
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