昨日、この1000日投稿を”もらとりずむ”からnoteに移動しようと試みた。理由は後述する。実際に、涙は人間の聖域からしか生まれない[139/1000]の記事をnoteにも投稿した。するとどうだ。私を襲ってきたのは、とてつもなく大きな喪失感だった。絶対にしてはいけないことをしてしまったような気持ちになった。私はすぐに投稿したnoteを削除し、”もらとりずむ”にて再投稿した。
私は強く感じた。このブログには、私が思っている以上に、私の魂が宿っている。また、このブログは私にとっての1つの「聖域」でもあって、忍ばれ、育まれているものがある。(聖域について昨日の記事に書いたとおり)
私がここを去り、noteに移動すれば、私自身の聖域が失われるような恐怖を抱いた。これまで通り投稿を続けることはできても、忍ばれる言葉の美しさは間違いなく失われる。
noteに移動しようと思ったのは、幾つか理由がある。1つは昨日の記事の冒頭で書いたとおり、より人目に晒されたほうが血を流せそうだという直感だった。”もらとりずむ”は良くも悪くも、「一軒家」みたいな感じで、たまたま通りすがる人が中を覗かないかぎり、人に認知されることはない。
一人でいることは気楽であるが、同時に厳しくある。人といることは楽しいが、同時に軋轢に苦悩する。
似たような感覚を私自身、ブログ投稿に感じてきた。人目に触れないところで黙々と書くことは孤独の厳しい戦いを強いられる。しかし裏を返せば、人との軋轢を避けることができる楽があった。
そしてもう1つは、より人目に晒されたほうが、私の魂と繋がろうとする別の魂と出会える気がしたからだった。私は自分の言葉に自信がないと言いながら、それでも自分の言葉の価値を信じている。なぜなら、今の私は、自分の言葉に魂を乗せているからだ。同じように魂の尊厳に価値を信じる人にとって、私の言葉はその励みになると信じている。
以上の理由があったが、今の私は、ここに留まることを選んだ。1つは、冒頭でも書いた通り、ここが私にとって忍ぶ場所だと認識したことと、もう1つは、他の魂との出会いを期待する自分に損得勘定があり、迎合しようとする意図が見られたからだった。
つまり、ここに留まることのほうが「損」だと判断し、行為として恥じないと判断したのだった。私の言葉に価値を感じる魂と繋がる機会が減ってしまうのはもどかしいが、その価値というものは、忍ばれたものであり、ただ偶発的に見つけられることを祈るしかない。
世界から見ればとても小さな一件だが、私の中では損得を勘定する肉体と、恥じないことを追求する魂との葛藤であった。
一件を終えて、夕の瞑想をしながら、こんな言葉が永遠と繰り返された。
「迎合なんてするな。お前の魂はそんな安っぽいものじゃないだろ」
いずれnoteに移動するときがくるかもしれないが、今はまだ忍ぶ時。誰にも読まれずとも、ここで小さく小さく、言葉を綴っていく。
精神修養 #50 (2h/108h)
「思念が生じるのは、生理現象である。」この本意を知ると、瞑想の本質にぐっと近づける。思念に執着した時、肉体行動が生じる。これは考えに反応することで、心地よさや、憂いのような(肉体)感覚を獲得しているのだ。つまり、思念が発生した瞬間は現象であるが、それに執着した時に肉体行動となる。
一見、建設的なことや生産的な思考をしているつもりでも、瞑想においてはこれを是としない。なぜなら、これらの思考も、思考によって心地よさを得ている肉体行動に過ぎないからだ。瞑想の本質は、魂の肉体超越にある。
昨日につづいて、1時間目を開けず動くこともなく、座り通すことができたのは、これらの感覚を体感値として掴めたからだった。肉体が魂を超越している間は、決して魂が肉体を超越することはない。
魂が肉体を覆っていくには、”行動なき”静寂が必ず必要となる。
[夕の瞑想にて]
瞑想とは、魂の肉体超越である。瞑想は愛の修行であり、友情の修行である。
今日は心が大きく動いた1日だったこともあり、日中、心は沢山のことを吸収した。ゆえに、夕の瞑想では1時間ぶっ通しで思念が止まなかった。これが生理反応だと分かれば、雑念の多さに、自己を攻めることもなくなる。(用を足したくなる自分を責める人間は誰もいない。)
自己のうちで、肉体と魂が戦争しているのを感じた。これを「内なる聖戦」と名付けようかと思ったが、微妙に的を得ていない感じもするので、この呼び名はひとまず没にする。
ここにきて、修行がまた一段、深くなった。思念が生じるのが生理反応だと分かると、思念に対して圧倒されることがなくなる。魂の肉体超越が行われつつある。
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