弁えと欲望の一線について。[299/1000]

どこまでが弁えで、どこからが欲望か。どこまでが美しく、どこからが醜いか。

 

ある日、プロ野球選手が遠征で使うようなマットレスで寝ていることが、急に分不相応に思えて、こいつを手放したことがあった。私など木の上に直接寝袋を敷けば十分で、百歩譲って布団で寝られたとしても、煎餅布団でどれだけ嬉しいだろう。東京の友人を訪ねた時、わざわざビジネスホテルを取ってくれたことがあった。これも私には余り過ぎる待遇だと感じて申し訳なくなった。食事についても、玄米を適当な野菜と一緒に炊き込んだものに塩をふって、昼か夕に1食いただく。これ以上は私には余り過ぎると感じる。家も所帯も持たず、仕事も半人前で、寅さんのようにフーテンな私など、飢えないだけで十分であり、雨風をしのげる寝床があれば、もう与えられ過ぎていると感じるのだ。

 

こうして書くと、私がいかにも弁えをもって暮らしているように見えるけれど、実際はそんな人間ではないので困っている。恥のためにここに書けないだけで、弁えを破るようなことを私はたくさんしているし、そうして堕落する自分がとても情けないのだ。

弁えと欲望の一線をここで定義するなら、きっとこうなる。人に伝えることが恥となれば欲望だ。弁えているかぎり堂々としていられるのだし、もし後ろめたくなったり、恥ずかしくなったりすれば、弁えを通りこして、欲望から発せられている。

 

なぜ、欲望は恥ずかしいと感じるのか。それは、欲望はいつも自己中心主義から発せられるものだからだろう。社会の関係の中で生きている我々は、社会を差し置いて、自分を中心に考えることに恥の感覚をおぼえるようになっている。欲望は自己中心主義が発する地上的なものであるのに対し、弁えは宇宙の心が発する宇宙的なものである。弁えは宇宙の力をもって、地上の肉体を制することであるから、弁えをもつ人間に、宇宙的な美しさを感じるのだ。

 

人間は正しく堕落しなければならない、と坂口安吾は言う。私はまだ「正しい堕落」の意味が分からない。働くことの美徳を破り、仕事を辞めた人間は、社会の回転から弾き出される。しかし、もしここで文明から自己の生命を救済できたらば、生命的には”正しい堕落”だったと言える。しかし、自己中心主義の欲望を肯定し、地上的な存在として堕落することは、正しい堕落と言えるのだろうか。前者には神の心があるが、後者は悪魔的であるように感じてならないのだ。

 

宇宙の心が失われれば、弁えもなくなる。弁えがなくなれば、すべては欲望一色となる。だから、弁えと欲望の問題がごっちゃになって、欲望の善悪の議論が生まれるようになる。「欲望がないと生きていけない」とか、それはそうなのだけれど、欲望にも美しい部分と、恥を感じる部分の一線が存在するということだ。そしてこの一線が意味するものは、宇宙と地上の境界であり、永遠と現世の境であり、神を信じるか信じないかの一線であるように思う。

正しい堕落についての問いは依然と残る。これについて考えるには、もっと恥じて、もっと汚れないといけないかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です