「運動律」という言葉に出会った感動をここに残したい。言葉の内に神秘的な響きを感じて、ここに続く言葉も何とも美しいものだったから。
以下は、関大徹という、はだしの禅僧と呼ばれるお坊さんの話。神経衰弱にかかった中学生の両親が、老師に治してくれとお願いにやってきた。老師は、寺は精神病院ではないといったものの、常人に対する座禅指導を行うことにした。この中学生は寺で過ごすうちに常人へと戻っていく。
懐疑を欠如させたまま、一つの運動律のなかに旋回せしめようというのであった。結果的には、そういう理屈になった。
その運動の中での、彼の美しさは、どうであろうか。私は、彼の美しさの中に「仏」を見た。もし私が、感激家であったなら、その「仏性」に手を合わせて拝んでいたかもしれず、あるいは、思わず拝跪していたかもしれない。
食えなんだら食うな, 関大徹(ごま書房新社)
運動律という言葉の神秘は、この内に神を見つけたからである。もっともこの場合は、「仏」を見たと言っているように、仏だけれども。言っていることは同じである。宇宙の心を地上に展開したとき、我々はそこに神を見出す。自己という存在がかぎりなく小さくなることで、人間が大きくなり、魂が入り込んでくるのだと思う。運動律の中に身を修めることで、「旋回していく」と老師が言うことは、まさに修身である。自己の内ではなく、外にある宇宙の法に、身を修めていくと、自己は宇宙に旋回していく。宇宙の大きなエネルギーの中と一体となるのである。
私は「律」というものに、救われた経験がある。規律がそうで、鬱を引きずりながら生きていたとき、毎朝毎夕、瞑想をかかさず行うようになったことで、次第に元気になっていった。規律や運動律といったものが、宇宙のものである以上、ここには宇宙のエネルギーが詰まっている。だから規律に身を修めれば、苦しくとも宇宙の力は入り込んでくる。
やりたくない日にも、必ずやるというのがポイントだ。いや、むしろやりたくない日にやるからこそ、地上的な慣習は、宇宙的な規律へと、次元を変えていくように思う。気分を重要視して、やりたい日だけ行っていては、いつまでも自己から抜け出せず、地上に閉じ込められたままである。
宇宙の法、つまり運動律の中に、身を修めるには、自己を超えて、自己よりも規律を第一に考えなければいけない。そういう意味で、粗野な言葉になるが、自分を死なせなければならないのだと思う。葉隠の言葉を借りれば、毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身となることで、我々は魂の力を得ていく。
自分を見ることをやめて、宇宙を見たらいい。そして自分を宇宙の中に放り込んでいく。自分は自分のものではなく、宇宙のものであるように。神に委ねるように踊りは生まれて、詩も、音楽も、根源はそうかのかな。今この瞬間も、宇宙に響き渡る音楽が目に見えるようだ。春の訪れに胸を躍らせる枯れ木すらも旋律の中に生きている。この宇宙の神秘を知りたくば、地上に展開された神に触れることしかない!
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