人の呼吸を感じるとき、その人間の命を感じる。
幸せも不幸も、喜びも悲しみも、満腹も飢えも、いつから誰かのものだと思い込んでいたのか。自分が消えるとき肉体が隔てる境界はなくなり、個の所有の概念はすべてなくなる。幸せも不幸も喜びも悲しみも、全部ここにある。そんな状態も、仕合せというのだろう。
16時半には陽が沈む。冬の日没はどうしてこんなに寂しいのか。暗くて寒くて孤独な夜がやってくる。それを誤魔化すように、最近は夕暮れ時に諏訪湖まわりを散歩する。諏訪湖のまわりには、知っているだけでも足湯が3つあって、散歩途中ここに寄る。寒さでお湯はぬるくなっているので、なるべく源泉に近いほうに座る。それでもお湯はぬるくて身体が芯から温まることはないが、冷え切った手足の感覚を取り戻せるだけで十分だった。
滝行や行水や断食のように、自ら肉体を死なせるとき、魂は生きる。一方、受け身となれば、肉体の死がそのまま、自分の死となる。雨に晒されれば風邪をひき、食を断てば飢えとなる。寒さも同じで、受け身であれば、服を何枚着ても寒さに囚われ続けるが、立ち向かっていけば、臆病風すら吹き飛んで、心身ともに清々しくなる。それを知ってからは凍てつく空気の中を歩いても、寒さが問題になることはなく、肉体が死んでいくほど力が漲るのを感じる。
散歩をしながら、温かいシチューを思い浮かべていた。きっとこの瞬間、日本のどこかでは部活帰りの高校生が暖のある家に到着し、母の作った温かいシチューを食べていることだろう。また、子供や夫の帰りを待ちわびて、温かいシチューを作る母や、彼氏の胃袋を掴むために、初めての温かいシチューに挑戦する彼女もいるだろう。
彼らの呼吸を感じると、ここに幸せを感じた。一人諏訪湖を歩いていても、シチューを食べているような温かさを味わっていた。体験は個の肉体に属していても、あまりそれは大きな問題ではないように思えた。自分という肉体が死んでいくほどに、幸せも不幸も”自分のもの”であるか否かは問題ではなくなる。人の幸せも、不幸も、喜びも、悲しみも、ただここにある。この状態もまた、仕合せというのだろう。
呼吸とともに生きている。世界は呼吸に満ちている。自分の呼吸に気づくことも、人の呼吸に気づくことも、自然の呼吸に気づくことも、本当は自然の動物として当たり前に行われるべきことなんだと思う。自然界の動物をみても、いつも呼吸に気づいている。狩るライオンも、狩られる鹿も、息をひそめて、息を察知し、呼吸のやり取りの中で命がけの戦いをしている。世界の呼吸と共に生きるとき、自然の法は実行されていくように思う。
自分の呼吸、人の呼吸、自然の呼吸に気づくことは、本当は自然の動物として当たり前に行われるべきことだと思う。狩るライオンも、狩られる鹿も、息をひそめて、息を察知し、呼吸のやり取りの中で命がけの戦いをしているように、自然の法は呼吸と共に実行されるのだと思う。https://t.co/iZJFn5iHxu
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) December 15, 2022
精神修養 #89 (2h/186h)
草原を駆け巡る風の呼吸は柔らかく、水面に佇む岩の呼吸は重みがあって安心感がある。晴れた日の空は優しく呼吸をしているが、嵐の日には悲しみを感じる。
考えに夢中になるときほど、気を付けなければならない。仕合せなときほど、自慢と驕りが大敵となる。自分が肥大化すれば、生きる方に流れていく。死にきれず恥をかくことは、先週身をもって学んだこと。
[夕の瞑想]
呼吸だけの状態になるとき、自分が消える。自分が消えて、対象の呼吸を感じるとき、入魂となり、対象の命をそのまま感じる。肉体の有無を問題にしないことから、時代を超えて、既に現世に存在しない人間や、本の人物、自分の過去に出会った人物にも触れることができる。これが偉人の魂に触れるということ。
この瞬間にも、世界には幸せな人間と不幸な人間がいる。温かくしている人間と凍えている人間がいる。満たされている人間と飢えている人間がいる。自分が消えるとき、それらすべてと繋がって、幸せも不幸も温かさも冷たさも満腹も飢えも全部ここにあるのを感じる。体験は個の肉体に生じるが、もはや個のものではなくなる。
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