魂を救済せよ。尊厳ある人間として生きるために。[231/1000]

時間が無限のように錯覚される社会であるのは、時間が有限であることに気づくことが社会にとって都合が悪いからである。時間は有限だと頭では分かりながらも、無限にあるかのように過ごしてしまうのは、社会の発する空気感によるところが大きい。

肉体と感覚の奴隷になるとき、魂の救済を試みる人間は、これではいけないとうすうす気づいている。しかし、魂の救済を簡単に行えないのは、社会があの手でこの手で誘惑し、洗脳して飲み込もうとするからである。

肉体至上主義にとって、魂の救済は行わないほうが楽である。誰かが高貴な人道を生きようものなら、肉体至上主義は自身が拠り所とする刹那と虚しさに目を向けなければならない。だから気づこうとしないまま、無限の時間を生きるという愚かな真似を繰り返す。

人間を堕落させ、動物的な生き方を強いているのが今の社会だと思う。魂の救済を試みる人間の足を引っ張っているのが今の社会である。ここには義憤を感じざるを得ない。

 

 

スマホを手放して、あれから何日経ったか。人生はまったく変わってしまった。家を手放したときと同じくらいの衝撃である。家を手放した時は物質的な変化が大きかったが、今回は精神的な変化が大きい。何が本当に価値のあるもので、何が価値のないまやかしなのかはっきりと分かるようになった。

家を手放したときは、その大半の機能がなくても生きていけることを知った。家の本当の価値は家族間で文化を築くことにあると今は思う。魂が貫く家の文化を家風という。家風を現世に展開する土台となるのが家である。家は魂の礎となる。だから極論をいえば、独り身の人間は家を持たなくともいいのだと思う。持ったとしても簡素なもので十分だ。家族を持たない人間にとっては、家は自身の肉体生存の役割が強くなる。むしろ私は家がない方が、魂の鍛錬は行える。

 

スマホを手放す価値について一般論を述べるのは難しい。スマホと言っても活用の幅はかなり広く、特定の行為を断定できない。また、スマホを手放したと言っても、こうしてブログを書いているように、私自身パソコンとインターネットは使っている。ここでいうスマホを手放すとは、日々の習慣に染みこんでいたような心情的なスマホを手放すこととして捉えてほしい。

その上で、語弊を恐れず申せば、スマホから得られる価値はどれも現世のまやかしである。現世のまやかしに共通するのは、時間は無自覚に過ぎるが、何も残らないということだ。それを社会全体が当たり前のように行っているように思えることがまた、魂を救済できない大きな理由となっている。非を非だと認めないとき、過ちに気づきながらも、再び肉体至上主義に飲み込まれるからである。

 

甘い言葉が多い世であるが、駄目なことは駄目である。我々人間の動物的な行為を認めることは、人間の尊厳を自ら踏みにじっているのと同じことだ。本当は恥ずべきことである。己の行いを恥じて、人間らしく生きようと努めることが、人道を生きるということではないか。私にとってのスマホはその恥の感覚を麻痺させていたものであった。本当はこのままではいけないとうすうす分かっていても、自分の弱さと肉体至上主義に飲まれるばかりであった。

 

 

読書の時間と、山や空をぼーっと見る時間が増えた。世界とはこんなにも美しいものだったのかと感動している。人生がまったく変わったというのは、まやかしから目覚めた部分が大きい。厳しさや苦しさは変わらないものであろうが、まやかしから目覚めれば、それすらも美しい宇宙の一部として捉えられるような感覚がある。まやかしは魂を現世に閉じ込めるものだから、厳しさや苦しさのもつ垂直性を享受できないのだろう。

まだまだ魂の救済は続く。人道を貫けるように。

 

精神修養 #141 (2h/290h)

自然の法に生きることを、霊性心は行為によって示そうとするが、理性心は言葉によって示そうとする。価値があるのは霊性心をもって行為として示すことであり、理性心で言葉にしても、何の意味もない。それどころか、理性心が大きくなるほどに、自分は膨れ上がり、見苦しくなる。

 

[夕の瞑想]

良い読書は静かな場所で、全身でぶつからないと成し得ないように、勇気を必要とする行為である。夕の瞑想は、その延長線上にあったことで、心は静寂に包まれていたのだと思う。歴史上の人物の魂を感じる瞬間は、瞑想の静寂を得る瞬間と、心の態度が似ている。傲慢なときは瞑想の静寂は失われるし、決して魂を感じることもできない。

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