三重の四日市に向かう途中の、河川敷にいる。
ボクは、今朝旅に出た。
50ccのスーパーカブにまたがって、実家を勢いよく飛び出した。
その瞬間に、涙がこぼれた。
お昼、河川敷で昼食をとることにした。
バイクを止めて、高架の日陰に腰を下ろす。
母が持たせてくれた、いなり寿司を食べたら、再びポロリと涙がこぼれた。
そして夜、「自分の想いを伝えられなかった人」に出会い、過去に伝えられなかった本音を話した。
再び涙腺が熱くなった。
旅に出たい気持ちはあるのに、正当な理由がないから旅に出られない…
という人が、結構いるのかもしれない。
- 「目的のないまま旅をしても、いい旅になりっこない」
- 「理由がないのに旅をしても、時間の無駄だ」
そんな風に、頭で考えすぎて、次第に「旅に出たい」という心の声は弱くなっていく。
もし、そんな状態にあるのなら、1つお伝えしたいことがある。
- 『まっとうな理由がなければ、旅してはいけない』なんてことはない
- 「旅に出たい」と心が叫ぶのなら、心の動くままに旅をすればいい
今日、1日を終え、涙を幾度とこぼして気づいたことがある。
そんなことも踏まえて、ボクの考えを綴りたいと思う。
1 旅の目的は「自分」を生きるため
ボクは旅をしている「自分」が好きだ。
旅をすると『自分』と対峙できて、『自分』を生きることができる。
よく、旅のよさは「孤独」だという。
「一人の時間」とか「自分と向き合う」とかそんな風に使われる。
今日、旅に立ちの時に涙をして感じることは
- 普段の生活の中で味わう「孤独」と
- 旅をして味わう「孤独」は
まったく異質で、まったく別物であるということだ。
普段の生活の中の孤独には、ノイズがある。
ノイズに防がれて、孤独は自分に襲い掛かってこない。
ボクは普段の生活の中でも、孤独を感じることがある。
そんな時は、大概スマホやパソコンに逃避してしまう。
SNSを眺めれば、「孤独」は感じにくくなる。
何かの作業に没頭すれば、「不安」は消えてゆく。
孤独を直視して感じきる前に、環境のノイズによってかき消されていく。
これが、生活の中の「孤独」だと思う。
一方で、旅の孤独にはノイズがない。
それゆえ、孤独は容赦なく自分に襲い掛かってくる。
ボクが旅に出ると同時に涙をしたのは、瞬時に襲い掛かってきた孤独と対峙せざるを得なかったからだと思う。
孤独を通じて、感じ取れていないまま、心の底に沈んでいた感情が、表面にあふれでてきたから。
喜び、悲しみ、憤り、希望。
旅の「孤独」は、心に沈殿した感情をあぶりだしてくれる。
これが、旅の「孤独」の魅力だと思う。
孤独はどこで味わうのか、いつ味わうのか、誰と味わうのか、どのように味わうのかによって、表情を変える。
そんな孤独には、恐れをなすのではなく、真正面から立ち向かっていけ。
と今ボクは過去の自分に伝えたい。
『自己と対峙し、自分を精一杯生きる。』
これ以上の旅の目的なんてないような気がする。
- 自分が日常で感じ切れなかった想いや感情にまで気づいて
- 自分を生きるきっかけになる
2 旅をする目的は人と出会うため
旅の出会いは、一切のしがらみがなく、
フラットな関係の上で伝わる本音は、心底美しい。
旅のよさは、出会いだとよく言う。
偶然の出会いもあれば、昔ながらの友と再会することもある。
面白いことに、旅の「出会い」もまた特殊なものだ。
人って私生活の身近な関係性のなかでは、
無意識のうちに誰かの期待に生きている
のだと思う。
「こういう風に思われたい」とか「あの人のためにこうしなきゃ」みたいな。
利害関係のなかでは、しがらみを抱えることが多い。
旅の出会いが特殊なのは
自分の自分への接し方が変わるから
だと思う
日常のしがらみから抜ければ、隠れていた本音がポロッと出てくる。
自分の本音に気づけ、自然体でいられ、相手ともフラットに接することができる。
実は、ボクが四日市に来たのは、人と出会うためだった。
ボクが過去に本音を伝えてこられなかった(蔑ろにしていた)人に、
心の底に放置されていた、自分の本音を伝えるために、今回の旅を始めた。
「あのとき本当はこうしたかった」
「あのとき本当はこうなったらいいと思ってた」
そんな本音を、等身大の姿で2人の友達に伝えた。
本音を汲み取った瞬間、思わず泣きそうになった。
受け取った相手もまた、心底嬉しそうだった。
深くに眠っている善意を伝えあえる人間関係って、こんなにも美しいものなのだなと感動した。
これは、出会いのなかでも特殊な例なのかもしれない。
けれど、旅人という「流れる存在」として出会ったことが、
- 自分との接し方を変え
- 相手との接し方を変えた
のだと思う。
旅での出会いは、一切のしがらみのないフラットなものだ。
そんな出会いを求め、出会いの美しさを感じる。
それもまた、よき旅の目的になるのだと思う。
3 旅をする目的はなくてもいい
旅はデザインするものではなく、アートである。
目的はなくとも、心のままに動くから美しい
ボクはたまに、「旅に目的を求めることは無粋だ」と感じることがある。
旅に目的なんぞなくとも、心ゆくままに旅をすれば、それが今の自分に必要な形に変わっていくのではないかと。
昨日、陶芸を専門としている友人からこんな話を聞いた。
世の中には、「デザイン」された美しさと、「アート」の美しさがある。
デザインされた美しさは、計算の上で設計されたものであり、アートの美しさは個の感性が表現されて作られたものだ。
…..と。
旅は、アートそのものだと思う。
不確実な経験、偶然の出会い、1つの偶発的な出来事で、旅そのものが瞬間的に変化していく。
それならば
- 作為的に旅をするよりも
- 無作為の作為として
旅をしたほうが、あとから振り返ったときに、美しいと感じられるのじゃないかと思う。
旅の目的を頭で考えるのではなく、心の動くままに旅をする。
そんなアートな旅も悪くないよね。
4 まとめ
ここでお伝えしたかったこと3つ。
- 旅に出れば「孤独」を感じる。自己と対峙して、自分を生きられば、それで十分。
- 旅の「出会い」はしがらみのないフラットなもの。出会いの美しさを感じるのも悪くない。
- 旅に目的がなくてもいいんじゃないかな。デザインするよりも、アートとして心の動くままに旅をしてみては。
以上、旅に出て感じることを一緒にまとめてみました!
もし何かあれば、Line@まで!
お話聞きます。
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