人間存在は「一寸千貫」にも劣らぬ力である[955/1000]

言葉選びの才もなければ、物をつくることに長けるわけでもない。絵も歌も踊りも並以下だ。それでも命は芸術に死なせてくれと、日々咆哮しつづけている。この命を扱えるほど、自分という存在は優れていない。己にできることは、自分よりも大いなる存在に、命を放るだけである。その見返りとして天から授かるものが詩の心である。詩の心があれば、無一文になったとて怖くはない。だが詩の心がなければ、大金があっても怖れと虚しさからに付きまとわれる。

現世に迎合するほど、魂は打たれ弱くなる。固有性が失われ、輪郭がぼやけ、次第に認識できなくなり、最後には魂が存在していたことを忘れてしまう。神は死に、自然は分断され、文化は踏みにじられる。結果、姿勢は屈折し、背骨は折れ、脳髄は縮小する。五感は肥大し、我は膨れ、筋肉は凝固し、体は腐臭を放つ。

天を仰ぐのは旅人である。地に足を着けるのは生活者である。昨日も書いた「一寸千貫」という言葉に私が深く感動するのは、人間の本質を見るからである。天から降り注ぐ力をただしく受け止めるには、背骨を立て、真っすぐ地に足を着けなければならない。古くさい道徳だと嘲られようと、構わないという気持ちにさえなる。人間存在とは、一寸千貫にも劣らぬ力である、美しい存在であると私は固く信じるのである。

 

2025.1.31