日常性と非日常性が交わる一点において、肉体は赦され魂は救われる。③[909/1000]

来る日も来る日も、家づくり。気づけば、ロフトが完成している現実に、なんだか哀しい気持ちになった。人間が時を歩んでいるのではなく、時がおれたちを運んでいるのだと。いったいどこへ…。その先を見つめれば、日常としての今に、不変性が湿潤してくる。今日与えられている「今」が、明日与えられるであろう「今」と一つとなり、10年後、30年後、50年後の「今」へと溶け込んでいく。私はいま30歳である。だが、80歳の爺ちゃんと話していると、私は80歳だろうと言っても何ら違和感がないのである。宇宙が永遠に拡がるかぎり、自他の境界線も、(過去や今や未来といった)時間の境界線も、遥か彼方では曖昧となっており、それを自覚するとき自己存在の形が揺らぐのである。

「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦しみて暮らすは愚かな事なり。」昨日、日常性と非日常性の交差点にて、肉体は癒され魂は救われると書いたばかりだが、実は日常そのものが夢のようなものである。最もそれを自覚するということが、既に永遠の力なのだけれども。さあ、これ以上身体が冷えきる前に、日常へと戻ろう。

 

2024.12.16