日常性と非日常性が交わる一点において、肉体は赦され魂は救われる。[907/1000]

一日の終わりのささやかな楽しみのために、魂は犠牲になったということはできないか。日々の疲れや苦しみは、本来、信仰によって癒されるものである。日常と非日常が交差する一点で、傷ついた肉体は浄化される。娯楽や享楽が溢れる今日、一日の終わりのささやかな楽しみというのは、精々苦しい日常を忘却することしかできない。日常の上に、別の日常覆いかぶせたとて、その場その日しのぎが関の山である。そうして日常は、日常の上を滑るように、惰性していくのである。

もっとも幸福な話だ。芋を食って飢えをしのいだ時代を思えば、今日の幸福はどれほどの人間に願われたことだろう。魂は必要とされなくなった。そうして捨てられただけの話である。ひとたび、かつてのように街が火の海と化し、家も財産もすべてが失われてしまえば、人は再び魂を拠り所にするにちがいない。街灯の灯りはない。空を見上げれば、無数の星々が散らばっている。教会の屋根が朽ちても、その向こう側に青空が広がっているように、いかなるときも、天はそこにありつづける。そして、天がそこにあるかぎり、人間から信仰がなくなることもない。時代の堕落を憂うよりも、こうして楽観的でいるほうが、人間を信じていられると思わないか。

 

2024.12.14