心も身体も疲弊しているとき、素朴なものに触れると涙がこぼれることがある。[788/1000]

お盆だ。先祖の墓参りに帰りもせず、森で一人、木こりをしている。爺ちゃん婆ちゃんの家が懐かしい。今は取り壊されて駐車場となってしまった。広い座敷があって、正月には親戚が二十人近く顔を合わせて座ることもできた。もうあの賑やかな座敷で歳を数えることはないのだろうかと思うと、なんだか寂しい気持ちになる。所帯を持ち、たくさんの子と孫に恵まれれば、晩年にようやくそんな機会があるかもしれない。だが、山への隠遁を夢見る孤独な男にとっては、そんなもの夢のまた夢である。

 

爺ちゃんは、ナイフで竹を削り竹とんぼをよく作った。手作りした数百の竹とんぼを地元の幼稚園に寄贈して、新聞に載ったこともあった。私も孫といえるかわいい年頃は、爺ちゃんのつくった竹とんぼを従妹たちと畑でよく飛ばした。今思い起こしてみても、日本的で素朴な時間だった。素朴な記憶は、いつまで経っても優しく胸を撫でてくれる。そんな素朴な慣習は守るに難く、洗練された慣習に呆気なくとって代わられる。ちょうど、爺ちゃんの家が取り壊され、駐車場となってしまったように。古く何の役にも立たないものは、綺麗で便利なものに取って代わられてゆく。

 

合理性だけみれば何の悪いこともない。生きている人間の利益になったほうがそりゃいいはずだ。だが、心も身体も疲弊しているようなとき、素朴なものに触れた途端、ボロボロと涙がこぼれることもある。墓参りだってそうだ。墓の維持に金はかかるし草むしりだって大変だ。それでも線香を立てて、合掌する時間は、なんだか優しいものに触れている感覚になる。私は洗練されたものよりも、素朴なものを守りたいと願う古い人間だ。俺にほんとうの優しさがあるとすれば、素朴を愛する古い心だけだ。

 

2024.8.16

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