20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない。[771/1000]

この崇高な人が、自分の崇高さに飽き飽きしたとき、そのときはじめて、彼の美しさが始まることだろう。

彼が自分自身にそっぽを向くときはじめて、彼は自分の影を跳び越すだろう。そして、そう、自分の太陽に飛び込んでゆくだろう。

(略)

彼の眼には軽蔑の色が浮かんでおり、彼の口もとには吐き気が隠れている。なるほど彼は今、休息をとっているが、その休息はまだ日光を浴びていない。

雄牛のように彼はやるべきだったのだ。彼の幸福は大地の匂いがするべきであって、大地を軽蔑する匂いがするべきではなかった。

ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」

 

20代最後の冬に森に隠れて生活した。美しい、美しい、時間だった。電気もガスも水道もない。仕事という仕事は、倒木の片づけと、薪割りをするくらいで、のこりの時間は、読書と書き物にあてた。トーマス・マンの「魔の山」を二週間かけて読破したのはいい思い出だ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」にも大変感銘を受けた。音楽機はなかったが、ベートーヴェンの「月光」を、第一楽章から第三楽章まで、心の中で聴いた。

二冊は、今でも頻りに読み返すが、当時ほど、”深く”入ってこない。それどころか、”読めていた”ものが読めなくなっていることもある。「月光」を聴いても同じであった。耳を介さずに聴いていた時のほうが、ずっと音楽を”聴いていた”。それだけ、現世から距離をおいたあのひと時は、己の存在をかぎりなく魂体に近づけた。永遠に親しむ力があった。ゆえに美しかったと言える。

 

「20歳、それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない。」とはポール・ニーザンの言葉である。私もまた、あの冬を人生で最も美しいひと時だったと言うつもりはない。この冬、もう一度、森に籠ろうと思う。夏に畑で働き、稼いだ金で、秋には新しい小屋を建て、冬になれば獣たちと一緒に、もう一度森に棲みつこう。自堕落な文明生活とはおさらばして。太陽に火照った身体に、孤独な眠りを与えよう。

 

2024.7.29

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