キャベツ農家で働く話[764/1000]

私は、社会の連帯感という市民道徳と、国への忠誠という道徳とを、いまはっきり分けないとえらいことになると思うんです。つまり日本では市民社会が成立しかけたといいますが、実際上はこの市民社会というのは、ヨーロッパの堕落した市民道徳、堕落した市民社会の、つまりコッピーに過ぎない、ステレオタイプに過ぎないと私は思うんです。

(中略)

いわゆる社会的連帯が国への忠誠にまっすぐつながるというような、そういう論理構造は断たれてしまった。

三島由紀夫「若きサムライのために」

キャベツの葉に溜まった朝露を浴びながら、八ヶ岳から太陽が昇るまでの早朝を、無邪気に働く。野菜を収穫する仕事は単調であるが、単調な仕事ほど、技術の差が如実にあらわれる。キャベツは、外葉2枚だけを残すように穫り取る決まりがある。包丁の差し込みが甘いと、外葉を3枚も4枚も、一緒に穫り取ってしまい、その場合、2枚だけが残るように余分をそぎ落とさなくてはならず、時間がかかる。逆に、包丁をぎりぎりに差し込めば、残すべき外葉まで切ってしまったり、キャベツの芯が割れたりする。そうなると、グレードが変わったり、出荷しにくくなる。

 

熟練者は、一度の包丁の差し込みで、外葉2枚の完璧な状態に仕上げる。穫り取ったキャベツは、畝間に並べていくのだが、熟練者が並べたキャベツの一群は、思わず眺め入ってしまうほど見事だ。切口は綺麗で瑞々しく、味まで美味しそうに見えてくる。加えて、一度の差し込みで仕上げるので、余分な手間もかからず、生産量は素人の2倍、3倍となる。

 

朝露をかぶり、朝陽を浴びる。想像にたがわず、なんとも健康的な仕事だ。陽に焼けた農夫の顔には、くちゃくちゃな皺がある。陽光で土を練ったような、地水火風を混ぜこぜにしたような、自然と一体になったような皺である。決して、今風の色白で小綺麗な顔ではないが、農夫の醸し出す雰囲気をみていると、かつての百姓も同じような顔をしていたのだろうと想像が膨らむ。

 

社会貢献は現世的だ。地域のためとなり、人様のためとなる。だが、労働が国の忠誠へ一本で繋がっていくには、別の努力がいる。私は堕ちた人間だ。一筋縄ではいかなくなったことを身をもって感じる。市民道徳の輸入は魂を根絶やしにした。悪態をつくのは怨念によるものだ。えらいことになったのだろうが、自分にできることなどしれている。文化の土壌を耕すこと。己に根づいた文化を守ること。継承すること。仕事がその力となれば、線は国まで一本に繋がっていく。

 

2024.7.22

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