渇いた魂に添えられた慈愛の手[664/1000]

荒れ果てた人喰い沼で、己は幾度と涙した。錨を持たぬ肉体は、為すすべなく飲み込まれ、窒息寸前まで屈辱の底を這いつくばった。脳味噌抜かれた無分別を、己はどれほど恨んだだろう。絶望に看取られ沈没する様には、この世の悪魔もさぞかしほくそ笑んだはずだ。

 

感情は力を奮起する鍵であると、そんなことを思い立った。かつて情緒豊かに四季を愉しんだ思い出が、温かく胸を掠める。夕焼けに映えた田園地帯、偏屈な心をたしなめる広漠な山々の連なり、畏怖の名にふさわしい夜霧と伊豆の海。すべては創造主を失った、自然に似せた模倣品だった。己はひたすら咆哮した。身に浸食する絶望に身を殻にしないために。

 

すべては青臭い過去である。思い返してみれば、渇いた魂はいつも慈愛の手に添えられた。青年の若さゆえの希望か。だが、今でこそ思うのだ。干からびた魂を潤すために、慈愛を完全に手放してしまうことは、実は自己矛盾に陥るのだと。

人間は力であった。力はそもそもどこからやってくるのだろう。悔しさ、悲しみ、憎しみ。感情は力であり、生に意味をもたらした。守るものや捧げるものを持ち、肉体が魂と結びつく、何かしらの存在意義を見出すことに、力は身を伴ったエネルギーと化した。

 

一度は精神に地位を明け渡した感情を、己はもう一度、重んじてみようと思い始めた。人間を神にするつもりはないが、力の存在たる人間にとって、感情にすべての罪を着せることは筋違いだろう。この世が生きるに堪えぬほど醜さに満ちてても、己は人間を犠牲にする道をたどるほど、希望を手放してはいない。孤独に耐えかねて風潮に迎合するのではない。己はただ、生に敗北したまま、卑屈になっていく亡霊に、悪を知ってもらいたいだけだ。

 

2024.4.13

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