人はみな、多かれ少なかれ、迷いを抱えて生きている。
迷うから、人は問う。
自分に問い、それでも分からないことは他人に問い、それを通じて、さらに自分に問う。
そんな問いを繰り返し、右往左往しながら、前に進んでいく。
「自分に正直に生きる」ことは思いの他むずかしい。
けれど、正直に生きることができないからといって、自分を責める必要はないのだろう。
それよりも、
自分の不正直な部分を認めて、少しでも正直に生きようとする誠実さ
のほうがよっぽど大事だと私は思う。
そんな姿勢が、不正直さの中から、正直さを生んでいくのだ。
Contents
1 正直に生きることは少しずつ。
不正直な自分を責める不誠実さよりも、
不正直な自分を認める誠実さを持ちたい。
先日、私のもとに初めて批判の言葉が届いた。
「ようやく嫉妬されるくらいの影響力を持てたのかな」と頭で考えながらも、心はしっかりと傷つかせてもらった。
傷ついた私は、傷心と静かに向き合うために、人気のない草原に足を運んだ。
風に音を揺らすススキの横で、一人たたずんで、静かに問い始める。
私が傷ついたのは、「迷い」を抱えているからだ。
「自分がどれくらい誠実に生きられているか」「自分がどれほど正直に生きられているか」を私は日々問いながら生きている。
100%正直に生きられているかと聞かれれば、答えはNOだ。
私は、いま「100%正直に生きている」と胸を張って言えるほど、正直に生きられていない。
だから「今日死ねるか」と聞かれれば、「死ねない」と答える。
先日、事故をして死を連想したときも真っ先浮かんだ言葉は、「こんなところで死ぬわけにはいかない」だった。
やり残したことがたくさんある。
言葉を綴って、人の心を震わせたい。
世界一周の旅で美しい景色や素敵な人と出会いたい。
コーチングやカウンセリング、人の心に寄り添いながら日本中を旅をして、日本中に家族と帰る場所がほしい。
デモグラティック教育に携わって、ゆくゆくは学校をつくりたい。
愛するパートナーと小さなお店を開きたい。
金色の世界の中で、綺麗な音を奏でて、美しい言葉を紡ぎたい。
端的にいえば、もっと人を愛したいし、もっと正直で誠実な自分として生きたい。
8月からは、コーチングとカウンセリングを体系的に学ぶために、ある人のもとへスクールに通う。
これは、今の私が私たる所以となったもの。
それなりにお金がかかるから、いまは旅をしながら、山奥のレストランの洗い場でお皿を1枚1枚拭きあげている。
技術を体系的に学べたら、それをもって旅をする。いつか日本中で、誰かと一緒に心から笑い合う瞬間を夢見る。
いま旅をしながら、デモグラティック教育の専門書を読んでいる。
子供たちの前に再び立つのは、償いの旅を終えてからになるけれど、その前に見識を深めておきたい。
先日、私は誠実に生きることが許されないのが「現実」ならば、空想を生きてやるとの意気込みを綴った。
語弊のないように付け加えれば、これは
- 「現実」を受け入れられるところで受け入れて
- 本質的な部分で「現実」を跳ねのけていく
ということ。
ホテルでお皿を1枚1枚拭くことは、嫌いではないけれど、好きというわけでもない。
これは私にとって受け入れられる部分の「現実」であり、本質的な部分で舞い上がるための「仕込み」のようなもの。
「100%自分に正直に生きられた」と胸をはって言えるのは、「現実」を完全に跳ねのけられた時なのだと思う。
それは、生計が建てられるという見かけ上のものではなく、「いつ死んでもいい」と心から思えるくらい満ち足りた瞬間。
そんな瞬間を夢見て、少しずつ少しずつ、前に進む。
100%正直に生きられていないことを恥じることはあっても、自分を責めることはしない。
それよりも
自分の不正直な部分を認めて、
少しでも正直に生きようとする誠実さ
のほうがよっぽど大事だって私は思うから。
以前は10%も正直に生きられなかった自分が、20,30,40%…と上がっていく。
時には、60%まで上がったものが、50,40%…と下がることもあれど、内省をして再び正直に生きる。
そんな自分を傍で見つめられるから、自分の過去と今に「誇り」を持てるのではないだろうか。
「いつ死んでもいい」と思える瞬間と「私はもう死んでも悔いがない」と言える最期のときまで、葛藤はつづく。
2 正直に生きるために問う
人は変わり続けるゆえに、過去(の答え)に固執せず、今を問う。
過去との矛盾を恐れていたら、今を正直に生きられないのかもしれない。
私はよく、自分の中にタイムラグが起こる感覚に見舞われる。
過去にAだと言ったばかりに、今Bという答えを持っていても、Aを捨て切ることができない。
Bの価値を持ったまま、Aだと言い続けるから、自分の中に不一致した感覚をおぼえる。
そんなとき、誰かとの対話や自分を改めて問いなおすことを経て、Bの自分を生きる。
けれどもしばらくすると、Bも古くなり、Cが生まれる。
また自己矛盾に気づく。そんな繰り返し。
古い自分を捨てることは怖い。
そこに自分の生き方を反映してきたわけだから、過去の自分が間違っていたことを認めることになる。
これもまた、誠実さなのだと思う。
仮にそんなことを、責めることがあれば、それこそ不誠実だ。
だから、問う。
「問い」は人を更新する。
「過去の自分」ではなく「今の自分」を生かせてくれる。
私はこれからも批判を受けることがあるだろう。
そして、その度に傷つくのだと思う。
見えないところから、突きつけられる刃物はものすごく怖い。
いまも震えながら、筆をとっている。
それでも私は、これまで頂いた、たくさんの温かい言葉を胸に、
誰かの背中を押せていると信じて、言葉を綴りたい。
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