自己救済と生命燃焼について③[298/1000]

300日まであと3日。ある友は、毎日よく、あんなにも長い文章を書けるねと言うけれど、よく読んでいれば、毎日同じことしか書いていないことはすぐに分かるだろう。私がずっと書いていることと言えば、魂や、死や、自己救済や、生命といったことばかりで、前にも書いたようなことを、もう一度掘り起こしては、また別のところに大きな穴を掘って埋めているだけである。

ただ、掘り起こしたときに、いい具合に熟成されていたり、もう一度新しいのものと一緒に埋め直すと、ここで生じる言葉が少し違った風になるだけだ。そう考えると、所詮は言葉遊びをしているにすぎないのだけれど、しぶとく向き合い続けることで、いつかは真理というものを掘り出したいと願っている。

そういうわけで、今日も生命と自己救済について書いていくつもりだったけれど、いざ、掘り起こしてみると、ほとんど熟成されていないばかりか、以前とあまり姿を変えないままの言葉となってしまった。もし熱心な読者がいるのなら、「前にも読んだことある」とすぐに気づくだろうが、今日は掘り起こしたものをそのまま埋めるという、退屈な労働を眺めてもらうことになっても、どうかご容赦いただきたい。

 

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。

三島由紀夫「葉隠入門」

 

社会は秩序をもって回転している。この秩序をなすものが道徳であり、この道徳をあえて破るものが葉隠かもしれないと考えている。あくまで想像であることを断っておきたい。幸せがいいと世相がいえば、苦しみの価値を信じる。自由がいいと世相がいえば、制約の価値を信じる。そうして世相の反対を貫くことで、社会を回転する惰性的な流れから生命を救うのである。葉隠は、こうして秩序を破る性質をもつことから、江戸時代には禁書となったように思う。今日も葉隠は社会から嫌われている。例えば、ブログにしても、グーグルに評価されて検索の上位にあらわれるのは、道徳的で社会の回転に従順なブログである。読みづらく、乱暴で、社会の回転に抗おうとするものは、人の目から届かないところへ弾かれていく。

 

葉隠は必ずしも、好戦的であれという意味ではない。「永遠のゼロ」の宮部久蔵は、皆が国のために死ぬことを正義だと信じる時代に、命が大切だという信念を貫いた。周囲から蔑まれ、上官には殴られた。しかし、自己救済された宮部の生命に触れた部下たちだけは、宮部を死ぬまで慕い続けた。宮部久蔵は、世相を破り、自己救済をした後、誰よりも惜しんだその大切な命を、文明にぶつけるように特攻隊に志願した。命が大切だと訴える反戦作品かもしれないけれど、私はここに自己救済を見つける。

戦乱の世に戦乱の世らしい勇ましいことばを用い、平和な世には平和な世にふさわしい、やさしいことばを用いるのは武士ではない。武士にとって大切なのは論理的一貫性であって、乱世には行動によって勇気をあらわし、治世にはことばによって勇気をあらわさなければならない。

三島由紀夫,「葉隠入門」

 

宮部久蔵の生き方に葉隠を感じるのは、誰よりも惜しんで誰よりも大切にした命を、最後には文明にぶつけていった点にあると感じる。もし、宮部が特攻隊に志願することなく、泣きべそかいて生きて故郷に帰ったら、物語として成立しない。道徳に抗って、生命を救済したものの、文明に敗れれば、美談とならない。後世に語り継がれるのは、いつも人間の「雄々しい部分」であって、最大の雄々しさは死ぬときに試される。たとえ、道中女々しくとも、最後の最後で、雄々しく死んでいけたら、すべてが美しい物語となる。人間にはそんな物語をつくれるのだし、物語に生きてこその人間として生まれた意味だと思う。

仕事を辞めて、人生うまくいかず、社会から堕落したくらいで何だっていうんだい。我々はそんな物語を自分で進めるしかない。いつの時代も人間はこの雄々しさに敬意をはらっている生き物だと思う。

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