つい昨日、インドの旅から帰ってきた。インド初日で2000ルピーをトゥクトゥクにぼったくられ、人に聞いても欲しい情報が得られず、たらいまわしにされたものの、素朴で野蛮なインド人の感覚に触れて、生命的にほんとうだと思った。彼らの感覚がほんとうだと思えたとき、インドに来て良かったと心の底から思えた。
素朴な人間が帯びるものは、安全ではなく野蛮である。道徳ではなく力である。ゆえに、彼らの感覚には生命的な共感をおぼえるが、同時に怖ろしさを抱く。たとえば、片足のない物乞いを見れば、現実の悲惨に目を覆いたくなるが、彼らほど宿命づけられた存在はないという事実に、生命の奥底は震えざるをえない。
この生命的共感の次に襲ってくるのは、貧困から想像される治安への怖れである。宿命づけられた生命は、道徳を簡単に突き破る。偏見を含むことは認めなければならないが、今日の飢えをしのぐために、人を襲うことも金を奪うことも、背に腹は代えられぬだろう。また、我が子に食事を与えるために、人に付きまとい物乞いをし、盗みを働かざるをえない母親を誰が責められよう。
宿命に生きる人間は生命的である。彼らは断じて善人ではないが、強烈な生命である。彼らを前にすると、自己の道徳を重んずる生温い部分が、猛烈に恥ずかしくなる。
私は、宿命を背負う物乞いに憐れみを抱く自己の偽善さが忌々しくてならなかった。憐れみを抱いても金をやらなかった己を前にして、それならば悲惨を冷徹に直視する残酷さをもつほうがましであるように思えた。私は私の善が、道徳からではなく、生命から生み出されるものであることを願った。従順な無力さからではなく、昂ぶる生命熱の結果であることを願った。
日本に無事に帰還できてよかったと心底思っている。異国で熱を出したときは、このまま帰れないのではないかと本気で思ったのだ。だが同時に、日本に帰ってきてしまえば、猛烈な寂しさに襲われている。日本は私の故郷である。だが、全身が昂ぶるインドで味わったあの生命熱は、魂の故郷であった。
つまり旅を通じて、私は日本が魂の故郷となることを強く願うようになったのだ。
2024.3.15
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