何か物足りない貴方へ。「物」は足りていても「心」は足りない理由

何も悪いことはない。すべては順調にいっている。

何の問題もない。けれど、何かが物足りない。

 

そんなとき私たちは、損得勘定で生きている。

「これをしたら得だ、これをしたら損だ。」そんなことを考えて生活すれば、確かに物事はうまく運ぶ。

 

けれども、ちっとも面白くもないのだ。

そりゃそうだ。思惑のとおりに物事が進んでも楽しいことなんて何もない。

 

私たちが映画をみて、ドキドキ、ハラハラするのは、先行きが分からないからだ。

「次、この人は死んじゃうんだよね」「次の闘いは勝つんだよね」と分かっていれば、映画は物足りなくなる。

 

何か物足りないと感じるときは、

損得勘定で生きることを減らして

損をしてでも、心がときめくように生きること

だと私は思う。

 

何か物足りない、この「何か」は、損得の先にある心の喜びなのだ。

 

 

1 何か物足りないと感じるのは損得勘定で生きているから

損得勘定で生きていれば、人生は何か物足りなくなる。

損得勘定は、形のある喜びしか手に入れられない。

形のない喜びの中に、心の充足はある。

 

私たち人間は、損をすることを恐れる。

「損」をすることが、損だと思っているから。

 

でもそれは、見かけ上のことにすぎない。

実際見えない部分では、「損」をしていても、得になってることがある。

 

もらとり
番長
何言ってんだよ、損をすることが得だなんて、あるわけないだろ!

と思う人もいるかもしれない。

 

分かりやすい例が、おすそ分けだ。

親戚から、トウモロコシを50本もらったとする。

もちろん、それを自分たちだけで食べることにすれば、1カ月間毎日トウモロコシを食べれる。

 

けれども、私たちはそれをしない。

近所の人や、友人、職場の人におすそ分けをする。

 

見かけ上は、食べられる数が減るわけだから、損をする。

けれど、「ありがとう!」や「あのトウモロコシ、すごく美味しかった!」と言ってもらえれば、私たちは代えがたい喜びを得る。

 

本当は分かっている。

けれど、嫌でも働かないと金銭的に損をする、上司の顔色をうかがわないと損をする。

だから私たち人間は、心にもないことを言ってみたり、望まない行動をとる。

 

損得勘定をするのは「頭」だ。

頭の損得勘定は「心」の喜びを無視してしまう。

 

頭のいい人ほど、損得勘定をする。

皮肉なことに、損得勘定が染みついた頭は、心を置いてきぼりにする。

心が損していることに気づかず、「得をした」と上辺を見て喜ぶ。

 

「何か物足りない」と感じるときは、このことを肝に銘じることから始めればいい。

1つの知恵から、世界は驚くほど変わる。

 

2 何か物足りないと感じるときは、損をする勇気を持つ

損得勘定をやめるということは、損をするということ。

見えないけれど、「この先には心の喜びがある」と信じる勇気を持つのだ。

 

損得勘定をやめるというのは、勇気がいる。

人は「見えるもの」を信じたいイキモノだ。

 

「見えないもの」を信じるのは、ちょっと怖い。

けれども、それは杞憂に終わる。

心が充足したとき、見かけ上のことなんてどうでもよくなる。

たとえ、物は足りていなくても、心は物足りているから。

 

先日派遣で働いている、とある女性に会った。

彼女は、リゾートホテルのレストランの洗い場で、泥臭く皿洗いをしながらも、夢に生きていた。

ためたお金で、ニュージーランドに行くという。スノーボードが好きで、大会で優勝したいという。

 

夢を追う生き方を始めると、見かけ上は損をする。

大手企業に勤めるわけじゃないから、安定した収入も、異性にもてはやされるような「見栄」はない。

 

けれど、彼女は輝いていた。

夢に生きている彼女は、「見かけの損」などどうでもいいのだ。

 

「物」が物足りなくても、「心」が物足りれば、人は輝く。

「夢を追え」と言ってるわけじゃない。

 

心がけとして、小さなことから始めればいいのだと私は思う。

まずはこう問うてみてほしい。

 

「自分の心はどんなことを喜ぶだろうか」

 

3 何か物足りないときほど、自分の感性を大切に

自分の心はどんなことに価値を見出すだろう。

誰かに理解されることより、自分の心が「美しい」と感じる生き方を。

 

実は、スノーボードの夢を追いかける彼女には、「ピアノで一流になる」というもう1つの夢があった。

彼女は、専らのアーティストだった。

損得で生きるとき、私たちは生活をデザインしている。

生活をデザインするのではなく、アートしてみることだ。

 

これが、彼女を見て感じたことだった。

  1. 自分の感じ方を大事にして
  2. 自分なりの方法で表現してみる

これだけでも、必ず何かは変わる。

 

それは、心が物足りないのは、他人が求める世界観を追求してきたからで、「自分だけの世界観を追求する」ことが1つの突破口になるから。

  • 文章を書く
  • 作曲する
  • 絵を描く
  • 写真を撮る
  • 物を作る
  • 自分なりの旅をする

どんなことでもいい。

 

気づいていないだけで、私たち1人1人誰もが、芸術家だ。

その芸術性を自分の中から、形にできたとき、人は無類の喜びを得る。

 

4 何か物足りないときは「芸術家」になれ

 

私もそうだったけれど、人は「人に理解されないこと」を恐れる。

理解されない人間は、いじめにあって、傷ついてきたから。

 

けれど、人には「理解されない部分」は必ずある。

それが、その人「アート」であり、心を充足させる1つのピースだ。

 

…なんて言っても、それでも私たちは「芸術家にはなれない」と一度は思う。

  • 「自分は芸術の才能なんてない」
  • 「自分の感性には価値がない」

と思っているから。

 

はっきり言おう。

それは大きな間違いだ。

 

芸術は、comparable(比較できるもの)ではなく、incomparable(比較できないもの)だ。

誰かに理解されなくても、自分が「好きだ!」「これいい!」と思えれば、それは自分にとってお金にならない価値のあるものだ。

 

損得で生きてきた人ほど、アートとは無縁に生きてきた。

けれど、そんな人にも唯一無二の感性が眠っている。

 

私には、元教え子?のような中学生がいる。

彼は、自分の感性を大切にすることを始めて、パソコンでEDMを作曲している。

彼を見ていると、「自分の世界観」を「目に見える形」にすることが、とても楽しそうだ。

 

どんな小さなことからでもいい。

ちょっと日記を書いてみる、とかでもいい。

 

自分の心が少しでも揺れるのなら、そこには自分だけの宝が詰まっている。

 

5 まとめ

ここでお伝えしたかったことは以下の3つ。

  1. 毎日が何か物足りないのは、損得勘定で生きているから。損得勘定は、形のある喜びしか手に入れられない。形のない喜びの中に、心の充足はある。
  2. 損得勘定をやめれば、見かけは損をする。「この先には喜びがある」と見えないものを信じる勇気を持つのだ。
  3. 誰かに理解されなくてもいい。自分の芸術を見出したとき、それは代えがたい喜びになる。

 

最後に、スノーボード、ピアノの夢を追いかけている女性の言葉を紹介したい。

芸術家には誰にでも自分の世界を持っている。それぞれみんな違う。お互いの感性マネすることは出来ないから、これは神から与えられると思うんや。

 

神から与えられたものを、私たちは持っている。

 

6 私も短編小説書いてみました(おまけ)

この記事で紹介した、女性との出会いを、短編小説にしてみました。

ど素人です、お恥ずかしいですが、興味のある方は是非読んでみてください。

 


【ボクは決してストーカーではない】

 スマホの時計が「6:00」に変わった。気温は、-3度。口から出る白い息が、宙に舞っては大気へと消えていく。空には、名前の分からない星が浮かんでいる。明るさからして0等星に近いものであることは間違いなさそうだ。

僕はいま、とあるホテルの従業員用の扉の前で、2人の女性を待っている。ポケットの中で手を温めながら、耳にピッタリとハマったイヤホンからはQueenの曲が流れてくる。

こんな風に女性を待つなんて、いつぶりだろうか。そんなことを考えているうちに、中学1年生の頃、理科室の前で好きな子を待ち伏せして告白をしたことを思い出した。今思えばなんで、そんなことをしたか分からないが、それは僕が女性を苦手とする原因の1つになったことだけは間違いない。

 

僕は1ヵ月前に、2人の女性と出会った。1人は日本の伝統的な和を感じさせるおしとやかで温かい雰囲気の女性。もう1人は異国の雰囲気と独特の世界観を生きる天真爛漫な女性だ。

性質の異なる2人ではあるが、初めて一緒に働いた時、2人が起こした化学反応に強い衝撃を受けた。「アサガオが朝日を浴びてすくすくと育っているような活気と生命力」これが、僕が2人から受けた印象だった。

そこがホテルの洗い場なんて地味なものであることを忘れてしまうくらい衝撃的だった。だけど、2人と働けたのはその1回きりだった。

 

それからしばらく月日が流れた。特別、親しくなったわけでもない。けど、僕の心の中にあの2人が起こした化学反応が、いまだ存在していることだけは確かだった。それは、常に心の中に故郷があるのと似ているのかもしれない。

初めて会ってから、1ヵ月半くらいが経った頃だろうか、僕は再び、2人に会うことになった。仕事場に入ると、いつもと雰囲気が違う。あの「生命がみなぎるような活気」が宙を舞い、場を包み込んでいた。

僕はこの日「連絡先を聞こう」と決めていた。

だけど、そんな雰囲気に魔法をかけられたように、僕の口からはどうしても「連絡先教えて」の一言が出てこなかった。たわいもない会話を続けるしかできない自分を、僕は背中の上から静かに見下ろしていた。

結局僕は、何も言えなかった。彼女たちと会えるのは今日で最後だったのに。

 

後悔の念が湧き出てくる。そんな僕を、「これでいい」ともう一人の自分が懸命に納得させる。

僕は車で、この土地を発った。

どこか心に残る後味の悪さを感じながらも、それを踏みにじるかのように正面だけを見てアクセルを踏み続けた。まるで大門の目の前に生えている雑草を踏み潰していくかのように。

ハンドルを握りながら、何度も「あの時、ああ言って連絡先を交換すればよかったな」と過ぎてしまった過去を妄想する。連絡先を交換できなかった僕は、現実から空想の世界に逃げ込むしかなかったのだ。

 

大体3時間くらい走った頃、対向車線から走ってきた車が、乱暴に右折して、危うくぶつかりそうになる。僕は思わず、クラクションを鳴らした。その響きにはどこか虚しさが漂う。それが、今の自分に警鐘をならすものであることは明らかだった。

突然、僕は大きな孤独感に苛まれた。クリスマスを一人で過ごそうと、そんなことは一切気に留めないのに。

ふとこう思う。孤独感は、1人の時に感じるものではない。孤独感は、「本当の自分」を置いてきぼりにしている時に感じるものだ。

 

僕は車を停めた。一瞬、来た道を振り返る。

そこには、これまで見てきた道が180度逆さまになった光景が広がっている。それは何者かの手によって時空が歪められてしまったかのように、うす気味悪い印象を受けた。

「会いに戻ろうか…。」

僕は、3時間かけてきた道を、引き返そうかどうするか、頭を抱える。

葛藤を感じる僕は、「出会い」がこれまでの人生に与えてきた影響を考え始めた。

 

あれはちょうど5年前、ニューヨークに一人旅をしていた時のことだ。

事前にプリントアウトした紙の地図を頼りに、ヨレヨレになりながら辿り着いた格安ホステル。警戒心を抱えながらも、ドアを開けると1人の日本人が立っていた。名前はRyosukeというらしい。少々生意気な雰囲気ではあったが、それは彼の内に秘められた強い意志がにじみ出たものらしい。

ニューヨークの人ごみを、スイスイと切り抜けていく彼の背中には、人生に迷いを抱えながらも、必死に前に前に進もうとする力強さが現れていた。

旅するうちに僕は彼と徐々に打ち解けていった。そして、この出会いが、帰国した後も、僕の人生に多大な影響を与えたことは言うまでもない。

 

出会いは石ころのようなものだ。そこら辺にコロコロ転がっている。ただそれがどんな形をしていて、どんな重さをした石ころなのかは拾ってみないことには分からない。

今回の出会いは、ニューヨークの出会いと同じように、何か特別な石であるな気がした。

全く同じものではないけど、自分の見えていない人生の一部分に、一筋の光を照らしてくれるような。

 

今から帰っても、もう一度会えるか分からない。連絡先を交換してもらえるかどうかも分からない。

だけど、この些細な労力で人生の色づけが変わるかもしれないのなら、帰るのも1つの選択肢だと、僕は冷静になれた。

 

そんなことを考えているうちに、気づいたときには僕は3時間かけてきた道を引き返していた。実家に目的地を設定したナビが、何度も道を正す。まるで「そっちではない」と僕を制すように。

正面には、オリオン座が浮かんでいる。オリオン座までの距離は、700光年だ。それと比べたら、100kmちょっとばかしの距離なんて近いものなのかもしれない。

 

 

朝5時にスマホのアラームが鳴り響く。車のフロントガラスは、凍っていなかった。どうやら今日はそこまで冷えこんでいないらしい。まだ意識があやふやの中、朝6時に職場の入口で待ち伏せすることを思い出す。

まだ星空が顔を見せる中、近くのコンビニに行って、100円のコーヒーとミルクパンを買う。雑にパンを頭からかじり、胃に黒い液体を流し込むと、全身に甘みと温かみが伝わっていく。まるで古くなった自分が上から塗り替えられるように。

 

朝の5時56分、僕は従業員用の入口についた。6時代のバスは、15分、30分、45分の3つだけだ。彼女らが寝坊するか、休むことさえなければ、この中のどれかに乗ってくるはずだ。

スマホの時計が「6:00」に変わった。 気温は、-3度。口から出る白い息が、宙に舞っては大気へと消えていく。

残夜のわずかな恒星を僕は、はっきりと捉えていた。耳に繋がれたイヤホンからは、Queenの「ボヘミアンラプソディー」が流れる。寒さは感じない。

 

30分後のバスで、おしとやかで温かい雰囲気の女性が現れた。あまりの突如の登場に、僕は立ち尽くした。

そんな何も言えない僕に、彼女から僕に話しかけた。職場の目を気にせず話すのは思い返してみるとこれが初めてだったことに気づく。

彼女は茨城の出身らしい。これまでどうだったか、これからどうするのかといった将来のことを10分くらい話した。彼女が人生と深く向き合って、力強く歩んでいることはその言動から見て取れた。そんな生き方に好感を持たないわけにはいかなかった。

さらに15分後、天真爛漫な女性が現れた。「あれ、何してるの?」と言わんばかり顔で僕に近づいてくる。まだ6時代だというのに、一切の眠気を漂わせないいつも通りの雰囲気には脱帽するしかない。その独特の世界観に生きる彼女の全体像を、僕は最後まで掴みとることができなかった。

 

2人とも、連絡先の交換に快く応じてくれた。仕事の時間が迫ってきて、長くは話すことはできなかったが、短時間の会話でも、確かにそこには以前感じたアサガオのような活気が存在していた。

外に出た途端、冷たい酸素が鼻を通じて体内に入り込んでくる。数少なかった星は姿を消し、朝日が顔を出そうとしていた。

僕は身体を正面に向けて、 10秒ほど全身で光を受け止めると、植物になって光合成をしているかのような気持ちになった。

引き返してこう思う。

『人が力を必要とするのは、何か新しいことを始める瞬間である。けどそれよりも、もっと力を必要とするのは、惰性的に走るのことを辞めて、来た道を引き返すことである。』

時計はちょうど7時を刻もうとしている。

今日も一日が始まる。

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