山梨県北杜市、テントの中にいる。
テント生活を始めてから、目覚めがとてもよく、アラームがなくとも朝の5時半には起床を完了している。
テント生活を初めて以来、朝の5時には目が覚める。ちょうどこの時間に小鳥たちも起きるようで、さえずりが始まる。
5時なんて早すぎる、もっと寝させてくれと家住まいのときは思ってたけれど、今ではこのリズムがすごく自然で優しいものに感じる。
— とむ(日本一周テント生活) (@tomtombread) June 2, 2019
しかし今日は、久々に気分の悪い目覚めだった。
「起きたくない」と思った。
実は、山梨にきてからというもの、「朝起きたくない」と思っても起きなければならない理由がある。
…..「仕事」だ。
今ボクは旅の途中だけれど、資金が底をついてしまい、山梨のとある場所で一週間だけ、日雇いで働くことにした。
それで、働き始めて3日目の今朝、「起きたくない」と思ったのだ。
1 朝起きたくない気持ちの裏側は…?
「朝起きたくない」気持ちの裏には
- 「仕事に行きたくない」という気持ち
- 「本当は別のことがしたい」という気持ち
が隠れている
テント生活を始めて以来、朝起きたら『頭に浮かんでいることを紙に書き出す』ようにしている。
頭に浮かんでいることは、今の感情と直結しているから、紙に書き出すと
- 自分がどういう状態にあって
- どうして嫌な感情になっているのか
がどんどん見えてくる。
それで、今日も思いっきり書き出してみた。
そしたら、『仕事に行きたくない』って言葉が出てきた。
「あぁ、これだ…」って、気分がいくらかマシになった。
「俺は仕事に行きたくなかっただけなんだ」って。
ちょうど1年前、教員を辞める間際も、こんな感じだった。
当時は、朝仕事に行こうとして、ドアノブに手をまわしたまま、力が入らなくてようやくダメだって気づいた。
ああ、この感覚懐かしいって思った。
それで、もう少し書き続けてみた。
何か別のものが見えてくるかなって。
そしたら、
- 休みたい&もっとゆっくりしたい
- 自然の中を汗だくになりながら自由に駆け回りたい
- ウクレレ弾きたい
- 両親に会いたい
- 人情のこもった料理を食べたい
- 気になるあの人に会いたい
- 友達に会いたい
- 焚火を囲いたい
- 大森林の中で、肉を自分で焼いて、獣のように思いっきり噛みつきたい
- 雄たけびをあげながら、海辺を全力で走りたい
- インドに行きたい
- もっと多くの人にブログを読んでもらいたい
- 美しい言葉を綴りたい
- 本を読みたい
- 哲学したい
っていう心の叫びが出てきた。
書き出しているうちに、「だよな!だよな!」ってどんどん熱くなってきて、「自分の心」がまだここにあることに安心した。
「きょう仕事なんか行きたくなくて、本当はこれがしたいんだよな」って。
ちなみに1年前、教員をやめることになったときは、「自分の心」は完全に置いてきぼりになっていて、
本当は何がしたいのか、なんてのはまったく分からなくなっていた。
2 朝起きたくない時どうする?
本音をいえば「朝起きたくない」「仕事に行きたくない」のなら
「起きなければいい」し、「仕事に行かなければいい」って思っている。
そんなことを言えば、「他人に迷惑がかかる」とか、「仕事しないとお金がない」とか言う輩が出てきそうだけれど、“だからなんだ“って思う。
自分の心を犠牲にしてまでする「仕事」は、本当に仕事なのだろうか?
自分の心の意を汲み取らないことは、大切な人の気持ちを無視することと何が違うのだろうか?
それでも身体に鞭を打って出かけることは、自分を刃物で斬りつけることと何が違うのだろうか?
人間はつくづく不器用なイキモノだと思う。
頭が良すぎるゆえ、うまく制御できなければ、心は殺されてしまう。
最近、こう思うんだ。
「頭」の損得勘定で得られる豊かさは、所詮は頭で得られる豊かさだって。
損するかもしれないけれど「心」に生きるから、頭では想像もできないような、生きる歓びを見つけられるんじゃないかって。
もし、心がもろくなっているのなら、どうか心を大切にしてほしい。
もしかしたら、何らかの形で損をしてしまうかもしれないけれど、それでもどうか心を大切にしてほしい。
それが、「これが私の命だ!」と雄たけびを上げられる道だし、血の香る人間として生きる道だと思う。
「これが現実だから」と頭で割り切るのではなく、「これが私の生き方だ!」と己を貫くこそが、”もらとりずむ”だとボクは思っている。
3 朝起きたくないときの葛藤とどう向き合うか
頭と心は対等な関係であれば葛藤が生まれる。
その葛藤の中でどう生きるか。
話を今朝に戻すと、ボクは葛藤した。
ボクはいま、地にスレスレの生活をおくっている。
1年前に仕事を辞めて以来、安定した収入はない。
こうして書いているブログも多くの人に読まれるようになったのだけれど、アフィリエイトは一切しておらず収益は無いに等しい。
スーパーでは基本、半額シールのついた食材しか手に取らないし、
先日は、農家直送のミニトマトとキュウリが半額になっていたので、大喜びした。
完成した弁当は、価格と栄養を見ても、コスパが悪いから、買うことはまずない。
ガスコンロで料理をすれば、1食200円もあれば、栄養を考慮した美味しいものが食べられる。
こんな食生活でも、十分満足している。
こんな貧しい飯を、いかに旨く食えるかだと思っている。
ただ、人をめぐる旅をするとなれば、話は変わってくる。
多少なりともお金がかかる。人の善意にお世話になることはあっても、そこに甘えるのは筋違いだ。
おまけに、一週間後には旅のつづきが始まる。
仕事には行きたくないけれど、お金も必要。
そんな葛藤していたとき、岡本太郎さんのこんなツイートを見つけた。
生活にはさまざまの条件がある。ある程度それに順応しなければ生きてゆけない。しかし、順応しながら、一方では純粋に己れをつらぬくことができる。相対的と絶対的の矛盾のなかに、己れを生かしてゆくのがほんとうの人間だよ。
— 岡本太郎 (@okamoto_taro_bt) May 31, 2019
彼がいうには
- 生きていくためには、生活の条件にある程度順応することが必要
- 順応しながらも、純粋に己をつらぬくことができる
- 1と2に葛藤しながら、己を生かすことが本当の人間
ということらしい。
これを見て思った。
葛藤があることは、自然なことなんだって。
葛藤に苦しみながらも、ときには折り合いをつけ、それでも自分を貫きとおすことが、人間の醍醐味なんだって。
ボクは、結局仕事に行くことにした。
1年前と違って、今のボクの心はまだ生きていたし、1週間後には再び旅に出るから。
けれど、なんだかすごく悔しくて、心の叫びをしっかりとくみ取ろうと決めた。
この日は緑が生い茂る芝の上で思いっきり寝た。それで、お花の横でウクレレを1曲弾いた。
本当は小さなガスコンロで、肉を焼いて食べたかったのだけれど、どうせ食べるなら誰かと食べたいと思って保留した。
(以前、山梨で知り合った方が、近々こちらに来るとのことで、その方と食べることにした。)
俗世間に生きてると、目に見えるもの(頭の損得勘定)が優先されて、目に見えないもの(心の渇望)が後回しになる。
身近すぎるゆえに、盲点になりがちだ。
けれど、
1人の弱い人間として葛藤しながらも、泥を浴びて、ずぶ濡れになりながらも、
希望を持ちつづけ、地を張って、人間らしく生きよう。
そんな風にボクは思う。
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