私は教員を辞めることになった24のときから、自分が何なのか掴めなくなった。たぶん、これこそが自分だと信じてきたものが挫折と敗北を味わったことによって、自分の中で絶対の地位を失ってしまったのだと思う。「もうお前には主導権を任せられない」みたいな。
絶対を失った私は、頻繁に迷うようになった。ある日には、人生のすべてが何もかも最高に思えて、生きるとはなんと素晴らしいことだろうと感動するが、別の日には生きることが何もかも絶望的で、ただひたすら苦しんでいるのである。
いったい何が本当で何が嘘なのか、私は分からなくなった。そうなると、人生の素晴らしさに感動する自分自身に、疑惑の目を向け始めるのだ。そこに大きなヒントをくれたのが、ギーターの言葉であった。
聖バガヴァットは告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。アルジュナよ、それは貴人の好まぬもので、天界に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。それはあなたにふさわしくない。卑小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ。
上村勝彦訳, 「バガヴァット・ギーター」
私は水における味である。私は月と太陽における光である。すべてのヴェーダにおける聖音である。空における音、人間における雄々しさである。
上村勝彦訳, 「バガヴァット・ギーター」
結論から言えば、雄々しい言葉だけに耳を傾けることに決めたのである。女々しい言葉は生じたとしても、相手にしない。なぜなら、雄々しい言葉こそが、人間に与えられた心のなかで最上のものであり、人間が人間として生きる意味があると確信するからである。
人間の心には重層構造があると、中村天風先生は言う。本能を司る動物心、理性を司る理性心、それから人間だけに与えられた霊性心である。この霊性心から発せられる言葉こそ、雄々しい言葉である。動物は死なないかといつも怯えてる。理性は賢そうに見えて損得勘定を働かせる。損をすると分かれば、嫌なことばかり考える。肉体に縛られれば、いつも生きることに怯えて縛られつづけなければならない。
あの誇り高き武士道は、霊性心を発端とする。霊性心の塊である。キリストも釈迦もガンジーも、霊性心にしたがったからこそ雄々しく戦い続けた。霊性心とは、その人間にとって最高の運命の道筋を示すものである。彼らは神格化されたが、ただ当たり前のように人間が人間であるための心を自覚し、あるべき姿をまっとうしたにすぎないのだ。もちろんそれは、簡単なことではないから、堕落した人間からは崇められている。しかし、既に道ははっきり示されているのだ。
つまり、認識としてはこうである。女々しい言葉は自己の内で生まれるもっとも程度の低い言葉だ。そして、雄々しい言葉こそ、自己の内で生まれる最上の言葉だ。これは人間にだけに与えられた心だから。そして、聖バカヴァットが言うように、女々しさはあなたにはふさわしくない、ほんとうにあなたを天に導くのは雄々しさである、ということだ。
だから、女々しく悩まされる必要などない。そんなものはいちいち相手にしなくてよろしい。ああ、そうですかと話半分に聞いて、煩わしくなったら深く深呼吸して、心をすっきりさせればいい。私は毎日こう思うことにする。お前は勇敢な戦士だと。実際、人間とは『勇敢な戦士』なのである。それを覚えていようよ。
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