117日目は朝から何も書ける気がせず、ただ時間だけが過ぎてゆく。
毎日書いてれば、こんな日もあると思いながら、書くことにはエネルギーが必要だとつくづく思う。自分の内に凝縮したエネルギーを爆発させることが、書く行為においての清々しさであり、芸術であり、美しさであると思う。日々の悶々とした感情や、鬱憤なようなものは、体内に蓄積されていくほど外側に弾けようとする。そうした耐えがたい感情は、自分の内でかき回されるほど熟成されていき、やがて爆発という1つの到達点を迎える。その爆風に人の心は揺さぶられ、行動へと駆り立てられる。
葛藤はある。毎日何かしらの言葉を書くことはガス抜きであり、大爆発は起こせないのではないかと。言い換えれば、所詮、今の私の生き様はこの程度なんだと身の丈を知る材料になっている。言葉は私自身の生き写しであり、正直に自分の内にあるものを綴っていけば、自分が小さくなることも大きくなることもない。
感情を溜めこみたい衝動がある。これは感情から解放されたいという自由の衝動の対にある服従の衝動のようなもの。自由に焦がれながらも、何かに服従することを私は求めている。
毎日書くことはやめない。書きつづけることが目的となっている今は、死にたくとも死ねないような哀れな状態かもしれない。しかし毎日書きつづけることの大事もそのうち分かる気がする。とりあえず、ちゃんと死ねるくらい懸命に生きるしかない。書くことで生の衝動が発散されるなら、なるべく死ねるほうを選択したい。
精神修養 #26 (2h/62h)
お金があったり、物に恵まれていても、不幸だと感じることもあれば、ひもじい思いをしていても幸せだと感じることがある。
科学的にいえば、幸せの代表的なホルモンは、セロトニンとかオキシトシンとかドーパミンといわれるものだけれど、所詮は、身体の感覚1つをとって「幸せ」とか「不幸」とか命名しているに過ぎない。そう言うとあまりにもニヒリズムの考えに聞こえるが、幸せだとか不幸だとかに固執しすぎているときは、感覚に執着しすぎているのかもしれない。
「生と同じくらい、死に光を当てること。」
武士道のこれと同じことが、「自由と同じくらい服従にも光を当てること」と言えるかもしれない。この辺りはまだ考える必要あり。
瞑想中、小中高時代を思い出す。テニスをしていて、服従に近いスパルタ指導を受けていた。自由に遊べた記憶は僅かで、当時は言葉を書くことなんて知らなかったから、蓄積された鬱憤を、ただがむしゃらに走り、肉体に昇華することで心を保っていた。(保てなかったことも大半であった)
当時は、自由の衝動に駆られていて、その反動もあってなんだかんだ、今は身体的な自由を得た。すると不思議と再び、服従の衝動に駆られる自分がいる。生の衝動と死の衝動を同時に必要とするように、自由と服従の両方を欲している。
死んだような時期だったけど、そこから学べるものもある。
後半は、最近紹介している「葉隠」について、引きつづき心に留まった箇所を紹介したい。
生死二つのうち、いずれを取るかといえば、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない。(中略)”事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ”などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。(中略)
生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。(中略)
ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。
葉隠入門, 三島由紀夫(新潮文庫)
葉隠に対する理解は、まだ自分にとって都合のいい部分を都合のいいように解釈している程度の浅いもの。
ただ選択を迫られた場面において、死にきれず生き延びて恥になるのは、私としても本意ではないなと過去の経験からも感じ、また過去の「生きた」と思える経験はすべて死を選んだ先にあったものであることにも気づいている。
死を選ぶ原動力としての「恥」を武士は重んじていた。気高く生きることは、肉体や損得ではかれない価値であることは間違いなく、見えるものに惑わされず、どれだけそこを目指せるかが、武士道に生きるテーマだと感じる。
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