涙がわいてくる。私の少年時代を、殺ばつとした現在の私の生活の中によみがえらせようとしておられる。
*
赤飯の秋冷に思うあたたかさ、にしめの舌ざわり、一張羅の小さい妹たち、そして出店の笛の音。
笛や太鼓にさそわれて、
山のまつりに来てみたが、
山はいやいや里恋し、
風吹きゃ木の葉の音ばかり。
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少年は己を批判することをしらない。私の幼少時代もまた涙で一ぱいになるほど恋しい。
―この年の冬、父死す―
「きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」
出来高はごまかしだ。高騰するガソリン代を差し引けば、最低賃金にも満たない新聞配達をやっている。所詮、替えのきく仕事である。嫌ならやめてもらっていいというのが雇用主の本音だろう。金に困ってやらざるをえない立場の人間が、食い扶持を繋ぐために始めるのが新聞配達である。配達員の立場からすれば、なけなしの金でも働かざるをえないのである。
思えば、新聞配達をはじめてこの二週間、すれ違う配達員に元気よく挨拶しても、力のない挨拶しか返ってこなかった。来たときに「おはようございます」と挨拶をし、先に出て行くほうが「いってきます」と言うと、別の者が「いってらっしゃい」と言う。年配の人から若者まで配達員の幅は広いが、早朝の畑で交わされるような溌溂とした挨拶を、一度だって交わすことができていないのだ。無論、彼らを責めることはしない。われわれは不利な条件を押し付けられ、搾り取られている弱者だろうかと、同情の念が湧いてくるくらいである。
無論、不平不満を嘆くためにこうして言葉にしているのではない。私も金に困る以上は、悪条件でも働かざるをえないが、「積極一貫」の心であることは変わらぬ信念である。金を稼ぐことの苦労をひしひしと感じるのは、これまで社会を舐めてきたツケにすぎぬ。同時に、こんなときこそ積極一貫にあれば、そのうち運もめぐってくるであろう。願わくば、合理性のもと、人間の温もりが失われてしまった関係のうちに、ほんのひと時でも、温かな息吹をもたらさんとするのである。それが、今のささやかな目標である。
国と社会に貢献できる仕事がしたい。肉体のみならず魂にとっての糧となる、米をつくることこそ、私にできることではないかと最近は考える。戦後の減反政策と、米農家の高齢化で、日本の米が不足傾向にあるのは、昨今の米騒動でも明らかになったことだ。米農家は自給10円と言われるくらい、利益が出ないばかりか赤字になることもあると言う。それを思えば、新聞配達は十分金になる仕事だ。
こののことは、また追々書こう。近所の爺ちゃんや、世話になる農家に相談しないと始まらないことでもあるから。いずれにせよ、いかなる状況にあれ、絶対積極の精神を忘れぬことだ。引きつづき、肝に銘じよ。
2025.3.15