新聞配達二日目。今朝も三時に出勤し新聞を投函する。昼間の間に配達ルートを反復していたこともあり、概ね配達する家は把握できた。
一般的に、新聞配達には「配達記号」なるものが使われており、地図がなくとも記号だけで配達する家が分かる仕組みになっている。だが、私の勤めるところは、別荘区域が点在し家ごとの間隔が広いことから、配達記号は使わず地図と名簿を使っている。配達する家がハイライトされた地図に、配達順の番号が振られている。これと銘柄が記された名簿を照らし合わせて「ここは日経、こっちは産経」というように情報を確定するという簡潔なやり方だ。
また、新聞配達といえば、早朝、玄関先に聞えてくるスーパーカブのエンジン音が私の実家ではお馴染みであった。微睡の布団のなか、あの丈夫そうで安定感のあるエンジン音が聞こえると、今日も平和に朝が訪れるのだと穏やかな気持ちになったものだ。だが、山の裾野に位置するこの地域は坂道が多く、前述したように家ごとの間隔も広いことから自家用車が用いられる。間隔の狭い地域もあるにはあるが、そういうところは散歩がてらに爺ちゃんが、歩いて配っているらしい。
考えてみれば大都会と地方では、住宅の密度はずっと差がある。同じ部数を配達するにしても、マンションのようにポストがまとまっている地域はすぐに終わるだろうし、一軒一軒が離れていれば移動もそこそこの時間になる。地域ごとでやり方は当然変わってくるだろう。
てっきり、朝凍を耐え忍びながら、バイクや自転車で風を切るものだと思っていたから、暖房のきいた自家用車で配るという点は少し拍子抜けであった。だが形式はどうであれ、人々がまだ寝静まる時間に務めて働くのは気持ちがいいものである。たまに、電気のついた早起きの家があると、人間の温もりを感じるようで嬉しくなるのである。生活のため、金を得るため働くわけだが、それを差し引いても、労働に価値があることは昨日も書いた通りだ。金がないのは困る。現に私は困っている。だが、困ってばかりいても、心まで困窮してくるだけだから、それならば労働に尽くすことの生命的歓喜に意識を向けていたいと思うのである。
2025.2.26