新聞配達の仕事に有りつけそうだ。とはいっても、まだ面談すらこれからなのだが。単なる期待感にすぎぬ。こう言っちゃ新聞屋さんに失礼かもしれないが、早朝とも深夜ともいえない時間帯からはじまる新聞配達の仕事は、金によほど困っている苦労人や、普通の暮らしが間に合わないアウトローな人間の助け舟になっている印象がある。昨日、山荘という名の洋館で面談を受けたとき、身なりや立場からして、私はここに属していないと、分断を感じる結果に終わったが、新聞配達と聞いて、ここだと直感したのである。朝三時から、大寒波は過ぎ去ったが、冷え込む時間から新聞を配ることになる。懸念があるとすれば、私は道覚えが悪い。見知らぬ家を100件も200件も漏れなく覚えられるものだろうか。なに、そんなもの気合でどうにでもなろう。金がもらえるのなら、どんな仕事も死ぬ気でやるだけである。あらゆる苦痛は死ぬ覚悟で吹き飛ばす。
ようやく死ねるか。私が他者との会話を極力介さない、素朴な労働にこだわる理由はここにもある。ウェイトレスのようなサービス業をしていた頃、客に接する度に、厭らしく生きてしまう感覚があった。漂う腐臭に己の清らかな部分が汚されていく感覚があった。それと比べたら皿洗いはずっと健全だった。裏方のど底辺であろうと、虚偽と無関係に働けるだけで人間としてずっと誠実に思えたのだ。
まあよい。ぬか喜びにならぬよう、まずは仕事にありつくことだ。仕事を得る。毎日、死ぬ気で働く。苦痛を越えて死んでいく。己がやるべきことは、それだけだ。
2025.2.22