生きることは夢のようなものだという。夢とは、神が時空に零す記憶の涙である。空の遥か彼方からやってきて、風のように知らぬ地へ去っていくものである。少年期の冒険も、青年期の野望も、壮年期の苦悶も、老年期の叡智も、すべて優しい風に包まれて、記憶の海へと帰っていく。
大前提として、われわれはすでに夢のなかにいると言えないだろうか。生を授かった瞬間に、すでに皆、夢を生きているのだ。人間など辞めてしまいたいと思う者もあるだろうが、もともとは、人間になることが夢だったのかもしれない。親から生まれた人間は、自分の意志で生まれてきたのではないと言い張る者もあるが、宇宙が膨張していることを考えてみても、大いなる意志は生きようとしている。
夢に生きるとは、夢のなかにいることを自覚することである。夢のなかにいることを覚えているかぎり、物語の綴り手となる。生が夢であることを忘れるとき、生は自己目的となる。夢であることを知るから、我が身を危険にさらしてでも冒険しようと思えるのである。
夢のなかに生きていることを忘れたくなることもある。夢を見ない眠りは心地良い。時間とは神の歩みだ。神の歩みが空間を踏みしめ、本に綴じられていく一ページの、ほんの小さな小さな行間に、個人の生がある。それを自覚すれば、敬虔な気持ちになる。偉大な文学に触れるときと、同じ気持ちだ。学校の教科書では決して抱かなかった感情を、大いなる物語から授かるのである。
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私は50年前、森で隠遁生活をしていた。
大嘘だ。私が森で隠遁生活をしていたのは、つい2ヵ月前のことだ。たが私の時間感覚では、50年前の記憶と思われるくらい、世界が素朴に包まれて、まことに夢心地であった。体験する空間の変化が大きいほど、時間も多く過ぎ去ってしまったような錯覚がある。逆に、体験する空間の変化が小さくとも、膨大な時間が知らず知らず過ぎていくこともある。
夢心地とは、一つの感覚にすぎないが、これは同時に、この世が夢であることを証明している。夢心地ではなく、夢なのである。それを思い出しているだけである。ゆえに、夢のような体験だったと感じさせてくれる日々には、必ず涙がある。神が時空に零す記憶の涙だ。
ようやく人間になれたのだ。この夢のような一生を存分に楽しみなさい。そんな御言葉を夢想する日もたまには良かろう。
2024.2.4
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