「穢多」日本にあった差別[556/1000]

島崎藤村の「破戒」には、四民平等が宣言されたあとも、依然と差別がつづく「穢多」の素性を隠して生きる教員の苦悩が描かれる。穢多であることを絶対に言うなという父の戒めを破るため、破戒である。

新平民として素性がばれれば、教員をつづけることができなくなり、村からも追い出され、仕事を失い、家を失い、恥辱と共に一生が台無しになる。これが明治社会の影の現実であった。

また、「破戒」には同じ零落の苦悩を味わう人物として、元下級士族の不幸な家族も出てくる。家禄をとりあげられ、子供は五人も六人もいるため生活は困窮し、もう子供が生まれてこないように、「末子」だとか「留吉」だとか名前をつける。この時点で、今日の愛情に満ちた夫婦の命名を思えば、かなり痛々しい。

そうして生まれた子供の運命も暗澹たるもので、寺に預けられた長女は住職に色目を使われ、奥さんの妬みも買い、長男は親父の酒飲みのために卒業を前に学校を辞めさせられそうになり、末子は見切りをつけられた夫と一緒に、母親に見捨てられる。

 

苦悩。生まれながらに定められた不幸。ああ、私は何も言うまい。同じ運命の下にない以上、今は何を言葉にしても腐臭を放つだけだ。今はただ、入魂となり、破戒の苦しみを黙って味わっていよう。

 

***

 

今日、「穢多」という言葉が用いられることはまずない。ひらがなで「えた」と書かれるか、代わりに「部落民」と言葉が当てられる。この傾向は、なんと文学の領域まで要請された。島崎藤村の破戒についても、1957年の初版本においては「穢多」と言葉が使われるが、以降の訂正本においては、「部落民」と置き換えられているらしい。

私が古本屋で手にしたものは、たまたま初版本だったので「穢多」が用いられている。

 

当然、「穢多」を用いれば、書き手も読み手も苦しい思いをする。差別の問題の根深さに、今の私は切り込んでいく分を持ちあわせないが、それでもここで「穢多」と言葉をあててみるのは、苦しいもの、痛いもの、汚いものを綺麗に言いつくろうところに、ご都合主義を感じてしまうということと、同情とは同じ十字架を背負うことだという考えもとに、真に日本に根づく差別を恥じ悔いるのであれば、言葉の発する痛々しい悲惨を直視し、苦悩をともにするべきだと感じるからである。

破戒の初版本はそれゆえ一層重たい。

 

2023.12.28

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