己の愛を疑うな。愛はそこにある、存在のなかにある、生命のなかにある[530/1000]

愛することについて、様々な意見を耳にする。よくあるものは、「まず自分を愛せ」というものだ。これは、確かに真理をついているように思うが、自分を愛するための道筋は、まだ深い霧に包まれている。

今日、私の頭にあるのは、その第一歩。これは、民主主義への挑戦的な問いであるが、「人間は愛するに値する存在か?」である。

 

この第一歩の問いに対し、YESと確信をもって答えられないかぎり、人間への愛は現世の反対側へ飛翔する。つまり、愛せない人間とは、愛のない人間を意味するのではなく、神や魂といった非人間的なものを愛する人間であるといえるのではなかろうか。なぜなら、人間存在の本質が熱、すなわち愛だからである。存在そのものが、愛なのだとしたら、愛のない人間などいるはずがない。愛が現世に向かえば、愛は見事に表現され、愛が現世否定に向かえば、愛は永遠に注がれるということだ。

人間を愛することの価値を確信すること。これが自分を愛することの第一歩と言えるだろう。極端な例を出せば、「人類の遺産」と「最も大切な人」のどちらか一方しか救えないとしたら、どちらを選ぶかである。生きている現世の存在を選ぶのか。価値ある永遠を選ぶのか。

 

そして、仮にこの第一歩の問いに、NOと結論を出したとしても、愛は永遠に注がれるだけで、愛そのものが消滅するわけではない。人間愛の第一歩は、自分を愛することであるが、人間を愛するに値しない存在だと考えるのなら、自分を愛する必要も当然ないのである。

この民主主義社会において、私は危険なことを言っているだろうか。否。これをどうか、善意的解釈に委ねたい。人間を愛するための、さらなる前提として。

 

愛のない人間など一人もいない。ただ、民主主義の世の中にありながら、われわれの思想の自由は、窮屈に縛られている。結果として、己の愛の行方を見失っているのだとしたら、それこそ、全体主義ゆえの苦しみであると言えるだろう。

自分を愛せない人間を、愛のない人間だと考えることが間違っている。愛はある。存在自体が愛である。ここが始まりだ。あとは、愛をどこに向かわせるか。そして、やっぱりこうも思うのである。すべての人間が、人間を愛することを選べるわけでもないと。

 

「矛盾するものは調和する。調和しないものは中途半端なものだ」とトーマスマンが、ナフタという人物に語らせている。私は、この矛盾する両者を愛したいと願う人間である。死も生も。私が言いたいことは、己の愛を疑うな、愛はそこにある、存在のなかにある、生命のなかにある、ということだ。己の愛の声をきけばいいのだ。

そして、最後に、耐える強さ。悪意に屈しない強さ。そこに人間愛が生まれると己は言いたい。

 

2023.12.2

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