時間の哲学-時間を測定する器官は人間には存在しない[525/1000]

一様に進むという仮定の上で、時計は1分に60回秒針をうつが、これは空間によって時間を測ろうとする試みである。だが、時間を測定する器官は人間には存在しない。結果、時間があっという間にすぎたり、ちっとも過ぎなかったりという、感覚的な差異が生じる。

 

これは、主意主義という。早く感じたり、遅く感じたりする、感覚が捉える時間を、「実際の時間」であると考えるものだ。そして、この感覚上の時間感覚のほうが、時間の本質に近いのではなかろうか。われわれは皆、べつべつの「時計」を持っていて、便宜上、太陽暦を用いたり、共通の「時計」を用いているにすぎない。

太陽暦が示す60年という人生でも、その多くが虚無に飲み込まれて短縮されていれば、実際は60年に相当する時間を生きたとは言い難く、反対に、波乱万丈に世界を遍歴した人は、他の人にとっての100年に相当する時間を生きたと言えるかもしれない。

 

個人が持つ「時計」、(以後『独自時計』と呼ぶ)が、太陽暦よりも早く進む時、われわれは時に待たされる。そして太陽暦が、独自時計に追いつくまでの時間は、虚無に短縮される。待たされる人間、独自時計が早く進む人間、換言すれば生き急ぐ人間は、気を付けないと時間が圧縮され、60年の人生も60年の重みに相当しなくなる可能性がある。

 

森いる私は、文明社会とは距離がある理由上、太陽暦を必要としない。そこで、私は独自時計で生活してみようと実験することにした。私にとっての独自時計となっているものは、まさにこの手記である。私は毎日、物を書き、文末に日付を付し、一日を完了する。この日付こそが、私に時間感覚を与えてくれる、唯一の空間の変化なのだ。

そして、実験をはじめて一週間、奇妙な現象に見舞われた。今これを書き記しているのは、独自時計上では2023年11月27日だが、太陽暦は2023年11月21日である。つまり、独自時計と太陽暦の間に、6日間の差異が生まれた。

 

この宙に浮いたような、6日間を思うと得した気分にもなるのだが、ここで油断してはならないのが、私の独自時計の進みはかなり早く、ゆえに「待つ」ことに費やされれば、虚無に圧縮され、取り上げられてしまうことだ。

 

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先日、「夢の一つを生きているにすぎない」で現在、過去、未来について哲学した。「現在」とは「過去」と「未来」と重なる断片であると一つの結論を導いたが、この時間論は独自時計と相性がいいように思われる。

私は、独自時計においても太陽暦と同じ記号(xxxx年xx月xx日)を用いているので、そのせいで分かりにくくなっているけれど、時間は直線に進行しているのではない。数字が増えれば、前に進んでいるように感じられるけれど、もし(xxxx年xx月xx日)の記号のかわりに、一日ごとに法則性のない記号を用いたとすれば、時間の進歩の概念はたちまち崩れるだろう。

時間を認識する(xxxx年xx月xx日)の記号が使われなくなり、増加(進歩)の尺度を失えば、今の進歩社会は、どの時代よりも勝れているとは、傲慢な幻想であることに気づくだろう。

 

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こんな哲学をするのも、ニーチェの永遠回帰の思想に触れてみたいという好奇心が大きいからだ。私はこの永遠回帰の感覚こそ、「現在」と「過去」と「未来」が一つに重なる感覚に近いものではないかと踏んでいる。

再度になるが、時間が直線上に進んでいるという錯覚は、(xxxx年xx月xx日)の記号により、数字が無限に増えていくからではあるまいか。これは進歩を象徴する西洋の歴だ。対して、享保x年とか元禄x年とかいう時間の捉え方は、いかにも永遠の東洋的であるように思う。

 

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こんな哲学は戯言だといわれるかもしれないが、カレンダーも時計もない森の中で暮らしていたら、きっとどんな人間もこういう感覚になると思う。季節の移ろいはあっても、これは進歩ではなく、周期なのだから。時間が「進んでいる」という証拠をどこからも得られない。

 

2023.11.27

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