堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。
「続堕落論」, 坂口安吾
仕事をやめたら孤独となり、不安を感じるのは自然のことであろう。我々の生命は仕事を通して文明にぶつかっている。働いていないように見える専業主婦でさえ、家事をこなすことで主人を支え、間接的に文明とぶつかる。仕事は義であり、文明にとっても、生命にとっても背骨のようなものである。背骨を失えば人間は軸を失い不安定になる。ここでいくら愛を叫んでも、背骨が立たなければ不安定な愛にしかならないことは、私自身経験した。
しかし、仕事をやめることによる孤独は、生命が文明から弾かれ丸裸になったようなもので、見方によっては生命が救済されたともいえる。それは、坂口安吾の言うように、堕落であり、つまらぬことであり、悪であるのだけれども、生命を救い出すには仕方のないことだった。
そうして堅く握りしめた生命を引き連れて、どうにか天に駆け上りたいと願うが、そのためにはまず、堕ちるところまで堕ちなければならず、堕ちきることにも強さがいるときた。
俗にいう、くすぶっている状態というのは、堕ちきれず、かといって向上することもできず、中途半端な場所にとらわれることを言うのだと思う。堕ちるところまで堕ちると言葉で言うのは簡単であるが、これは道徳を犯す悪であって、社会の善人を敵にまわすのであって、自身を誰にも理解されない深い孤独の谷に突き落とすことである。谷の底に突き落とさなければ、天への道は生まれないと言うのなら、なんと人間の生は厳しいものか。私は今も、堕ちることの厳しさと向上することの厳しさの狭間に苦悩を生み出してもがいている。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。
「続堕落論」, 坂口安吾
仕事をやめた人間からは、日頃、善人と会うときには決して感じることのない、生命の感触を感じる。彼らの生命はむき出しになっていて、いつも不安定な状態だ。孤独に怯え、不安に震えながら、外面では明るくつとめ、素っ裸になった荒々しい生命の扱いに困惑しながら、必死に正気を保とうとする。私はそうした堕落した生命を感じると抱き締めたい衝動に駆られるも、共にできることは、厳しい荒野のど真ん中で、焚火でもしながら酒を飲むことくらいだろうかと思う。道徳を説き、堕ちた人間を更生させるのは、親や坊さんや、立派に生きる社会人が行うに相応しいことであり、私のように堕ちた人間にできることは、自分のことを棚にあげ、自身のダメな生き方を恥じる人間の顔を見て、卑怯にも笑い飛ばすことくらいであろう。まったくの馬鹿者よ。
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