数年前「惡の華」という漫画を初めて読んだとき、生命が震撼する感覚をおぼえた。当時は、この感覚の正体が何者か分からぬまま、ただとんでもないものに触れてしまったショックだけがあった。これのアニメを観て、もう一度あの時の衝撃が呼び醒まされている。
「惡の華」はもともと、19世紀のフランスの詩人、ボードレールの作品の一つであり、この漫画についてもボードレールを愛読する主人公が登場する。主人公はある日の放課後、魔が差して、誰もがクラスでいちばん可愛いと認める女の体操着を盗んでしまう。主人公はこの女に恋をしていた。この悪行を唯一目撃したのは、友達が一人もいない、クラスで最も嫌われていた女である。この女は偽善の世界を嫌い退屈していた。悪い女なので、主人公が体操着を盗んだことをチクるような善人の真似事はしない。むしろこれを弱みに主人公と「契約」し、悪の道に引きずり堕とそうとする。女は堕ちた女であったが、堕ちきる強さをもたない女だった。孤独と生命の倦怠のなかで目撃した主人公の悪行は彼女にとって希望だった。彼女は地獄の底に辿りつきたかった。
惡の華はどん底まで堕落する青少年の男女を題材にする。堕ちきる強さを持たない女は、男を利用して地獄の底まで連れて行ってもらおうとするが、この男も堕ちきる強さを持っていない。ボードレールの惡の華を読んで、俺はお前らとは違うと大衆を見下していたこの男も、実際に堕ちることはとんでもなく苦しく、自分は力のないクズであると知り絶望する。道徳を説くことと、道徳を破ることには雲泥の差がある。堕ちきる力のない男に女は失望する。そうしてこの契約は一度は破棄されるが、一度堕ちはじめてしまった生命は、堕ちるところまで堕ちなければならない宿命にあるのだと男は知る。そうして今度は、男から女に地獄に連れていくという「契約」をもちかける。ここでアニメは終わる。記憶が定かでないけれど、漫画ではここからどん底に堕ちていくはず。
人間は堕落するものであるが、堕落しきる強さはないと坂口安吾は言う。しかし、男は女にためになら、女は男のためになら堕ちきることができるのかもしれない。動機は何だろう。悪への快楽か。生命の渇望か。それとも恋か。惡の華がより一層ぐちゃぐちゃなカオスになっていくのは、冒頭で体操着が盗まれた、誰もがクラスでいちばん可愛いと認める女が、主人公と付き合うことになるからだ。この女は善人であり、前半は天使として、嫌われ者の悪女と対の存在となるが、後半は彼らと共に、地獄まで堕ちていく記憶がある。主人公はこの女のことを、自分がいなくても勝手に幸せになる女だと言うとおり、家庭に恵まれ、友人にも恵まれた優等生であった。この女は、主人公と悪女とかかわらなければ、善人として幸せな人生を送るはずだった。しかし不幸に染まっていくことを選んだ。男のためか。それとも自分のためか。
道徳を説くことと、道徳を破ることには雲泥の差がある。最後にはやっぱりここが突き付けられる。己の堕ちきる弱さがないと気づいたとき、主人公はボードレールの惡の華を読まなくなる。悪を読むことも所詮は悪に見せかけた善行であることを知ったからだ。生命の救済に憧れる人間、しかし堕ちる力のない人間は、善の中で不良の真似事をし、自分は他とは違うという自己陶酔に陥りがちだ。本当に悪に染まることは、親を悲しませ、周りを不幸にし、社会から隔離される。善から悪へ一線を超えることは、やっぱり普通はできることではない。「あの山の向こう側」にいける人間は狂ってる。正気ではありえない。
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