西暦2023年3月23日。まだ生きている。やばくなっているが、魂の救済は諦めていない。
魂の毒を食らいすぎて、ここ数日はとにかく悶え苦しんだ。今も渦中にいる。このままだと死にかねないと思い、音楽に救いを求める。初めて、モーツァルトのレクイエムを聴いた。レクイエムは、鎮魂歌と和訳されるが、意味としては死者の安息を神に願うミサである。
レクイエムに衝撃を受けた。ああ、自分の内に、死者がいるのだと感じた。死にたいのではなく、還りたがっている。悶え苦しむのは、自己に宿る死者性で、これが現世の肉体の内で、悲痛な叫びをあげてるんだ。死ねば楽になると思うのは、死ぬことで死者性が解放され、永遠へと還っていくためだろう。死が本来の状態で、生が特別なのだとしたら、生きることに苦しみを覚えるのは当然のことだ。しかし、同時に、死から生へと、地上に遣わされた実在として生きていることに、神秘と誇りを感じる。
レクイエムを聴いていたら、肉体の内で悶え苦しむ烈しい悲痛が、鎮魂されていくような感覚を得た。
なぜ魂は人間を苦しめる。なぜ悪魔が世界を支配する。安らぎはどこにある。救いはどこにある。ああちくしょう。俺の生命力はこの程度か?善悪の自由が私を苦しめ、毎日良心の安らぎを求めるも、ひたすら拒絶されて、永遠と苦しんでんだ。人間の不幸は、どうして。。。。。https://t.co/JPfCd8i30z
— 内田知弥 (@tomtombread) March 21, 2023
私自身も、数年前に私と極めて親しかった姪の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれて良かったような気がした。一見清楚な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
坂口安吾, 「堕落論」
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希(ねが)うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野(こうや)をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。
坂口安吾, 「堕落論」
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。
坂口安吾, 「堕落論」
自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
坂口安吾, 「堕落論」
死にたくなる理由が分かった気がする。魂の高潔は、幻像的で脆い。脆さの中、堕落に抗いつづけるのは、死にたくなるほどの苦痛を伴うのだ。そして苦痛に耐えきれなくなったとき、堕落するか、堕落を嫌って高潔のまま死ぬかの二者択一を迫られる。
ここで死ぬことを、坂口安吾は”未完の美”と言って、本当の美ではないと言っているけれど、同時に、二十の処女を六十の老醜として見つめるより、二十の美女を好むとも言っている。答えはない。
美の完成は、正しく堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救うことで到達すると言っている。しかし、ここでも人間の弱さと向き合わねばならない。正しく堕ちぬくにも、人間は弱すぎて、堕ちきることができない。堕ちきれない人間は、結局、弱さゆえに、処女を刺殺し、武士道をあみだし、天皇を担ぎださずにはいられなくなる。
正しく堕ちるとは…?
地獄まで堕ちるとは…?
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟を思い出している。父親殺しの罪を被って裁判にかけられるミーチャは堕落していた。この裁判でミーチャを破滅へと追い込んだ許嫁のカチェリーナも堕落した。嫉妬を巻き起こし事件の種となったグルーシェニカも堕ちる道を堕ちきった。悲劇の話だけれど、深い美しさに包まれていたのは、きっとこれが正しい堕落の道によって到達した地獄だからだろう。
物語の中盤、長老が死んで腐臭を放つ(聖者は死んだあと、腐臭を放たない)ときの描写にも「聖者の堕落」について書かれていた。ドストエフスキーは人間の堕落についてどう考えているのだろう。
結論、まだすべてが腑に落ちておらず、答えを出すには時期尚早である気がする。ただ、人間の堕落という一つのテーマが魂の救済とは切り離せない関係にあることを何となく知った。
ひとまずこれを、この数日間の苦しみの収穫としたい。
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