孤独とは、神との対話である。憧れの彼方にどこまでも伸びていくことである。
孤独とは、ただ独り生き、ただ独り死ぬことである。妻子を捨て、父母を捨てることである。
孤独とは、不幸を厭わないことである。貧しくとも、病になろうとも、真っすぐに歩むことである。https://t.co/0oD9Sv7hl0— 内田知弥 (@tomtombread) February 20, 2023
地獄に堕ちなければならない。憧れの彼方に伸びていくことばかりを考えていた。毎日、天ばかりを仰ぎ見て、その崇高に心酔し、苦悩に満ちた地獄の深淵を覗くことなどしようとしなかった。しかし、下を覗けば、道がある。無意識に、恐れていた。悪人になることを恐れ、不幸になることと、誰かを不幸に巻き込むことを、想像するだけで怖くなる。ドストエフスキーの「罪と罰」に登場するラスコーリニコフは、なぜ斧で老婆を殺したか。なぜ苦しみつづけているのか。その理由が少しだけ分かった気がする。
誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。君は僕等の東洋が生んだ
草花の匂のする電気機関車だ。芥川龍之介「或阿呆の一生」
悪人になりきれなければ、善人にもなりきれない。上昇と下降を繰り返しながら、魂の純粋に近づけるのだとしたら、下降を嫌えばそれ以上の上昇もない。垂直の道はそこで途絶える。悪を断行する勇気が得られなかった人間は地上に堕ち、俗に言う”いい人”になる。ああ、こんちくしょう。良い人ほど嘘くさいものなんてありゃしない。良い人ほど臆病なものなんてありゃしない。こんなにも恐ろしいのは、自分にその心当たりがあるからだ。こんちくしょう。地獄に堕ちることのできなかった自分は、死にきれなかった現世の屍でしかない。”いい人”なんてまやかしだ。こんちくしょう。お前は地獄に堕ちる覚悟はあるのか?悪を断行し苦悩を受ける覚悟はあるのか?
悪には制裁が下される。原付で家なし生活をしていた時を思い出している。当時、傷だらけの私は世間に対する鬱憤を荒々しいまま狂ったように叫び続けた。死ねみたいなことも叫び続けた。義はあったが悪であった。乱暴なままに人を傷つけ、当然社会から制裁された。当時はよくブログを通して批判的な言葉を受け、返り血を浴びてさらに傷ついた。自分の綴った言葉の善悪に葛藤し、どうするべきか分からなく、散々苦しんだ。当時は、人間礼賛にどっぷり染まって、人を傷つけることは絶対悪だと思い込んだ。癒しだけを求め続けた。しかし、あれはあれでよかったのかもしれない。悪を断行すれば、社会からの制裁は何かしら受ける。それが現世に生きる人間にとっての道徳基盤だから。それでも崇高に生きたいのなら、悪を断行するしかない。
荒ぶれ。荒ぶれ。本当は嵐のように暴れたがっているんだろう。安心なんぞくそくらえ。癒しなんぞくそくらえ。地獄の扉を開けてみろ。どこまでも地の底まで堕ちていけ。深淵でもがき苦しみ、傷だらけの血だらけになりながら、歯を食いしばって生きてみろ。その覚悟がなければ、憧れの彼方に伸びていくことも叶わない。ああ、こんちくしょう!
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