苦しんでる人間がいて、どうして自分だけ楽ができようか。[247/1000]

血を流す友がいる。血を流す友を見ると、自分が同じだけの血を流せているかを見て、同じだけの血を流せないと思えば自分に恥を感じる。言葉だけいくら綴ったって、血を流さなきゃ生命燃焼においては何の意味もない。でももし言葉を綴ることで、血を流せて、苦しめるのだとしたら、これから言葉を綴ることは大きな希望となる。読書に答えではなく問いを求めるように、言葉を綴ることも傷を癒すためではなく、血を流して痛み苦しむためにできないか。

 

ディエゴ・ベラスケスが描いた《キリストの磔刑》を飾っている。私はキリスト教徒ではないが、ベラスケスのキリストの磔刑を見ると、魂の静謐を感じる。本当に大切なものを感じ、現世の悪魔によるまやかしを躱すことができる。このキリストの精神を大切にしたい。自分を犠牲にし、人のため国のために命を奉げられないか。

今これを読んでいるあなたが苦しんでいるのなら、その苦しみを分けてくれないか。少なくとも今の私は、裕福とは言えないが、寝る場所があって仕事もあって食べ物にも困っていない。家と妻子はないが、健康と学びがあって幸せだ。苦しみを受ける余裕がある。血を流せる余裕がある。この余裕を自覚しているから、恥を感じているわけなのだけれども。悲痛な叫びを誰かにぶつけて、救われる人間がいるのなら、その悲痛な叫びを、俺に食らわせてくれ。ラインでいい。黙って言葉を噛みしめて共に苦しもう。

 

お前にとって義とは何だ。お前は日本のためにどうやって血を流すのだ。これを考え続けなきゃだめだ。分からないのなら、分かろうとしなきゃだめだ。自分のために生きてみて、それが本当の人間の生き方ではないと気づいたはずだ。分かろうとして分からないなら、苦しみつづけなきゃだめだ。今の環境で出来ることをしなきゃだめだ。ひたすら献身して、血を流して、腹の底から悶えて苦悩しなきゃだめだ。自分のためなんて考えなくていい。全ては自己犠牲。義の精神をもってひたすら自己を奉げた先に、愛はあるんだろう?

 

血を流している人間がいて、どうして自分だけ安心を得られようか。飢えている人間がいて、どうして自分だけ肥えられようか。凍える人間がいて、どうして自分だけ温まろうか。苦しんでる人間がいて、どうして自分だけ楽ができようか。自分だけで生きてるんじゃないんだ。痛みを共にして、励まし合って生きてんだ。ああ、ちくしょう。こんちくしょう。そうだ苦しめ。苦しめ。そして、苦しみを全身で味わって、飲み込んでみろ。自分を奉げるかわりに、すべての痛みを受け入れてみよ。

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